2026年7月24日 (金)

これも排外主義という?

 1996年4月、イルカ&クジラ・アクション・ネットワークは誕生した。それまで、イルカを愛して海外の情報をもととするイベントを行ったり、イルカ関連の海外ツアーを組織してきたいくつかの団体と、日本における動物福祉の観点からイルカ保護団体を立ち上げたいと言う人達が集い、新たなネットワーク組織を立ち上げたのだ。団体名に「アクション」という言葉が入ったのは、他団体が実施しているイベントやツアーではなく(邪魔しないで)、もっと直接的な行動を行うためとされているが、私は当初は参加していなかったので、詳しいことはわからない。

 立ち上げて半年もたたない10月、ダイバーを名乗る人から電話が来た。富戸というところでダイビングをしていたら、「チイチイ、ピイピイ」と声がしたので見たら、たくさんのイルカが捕まっていた。なんとかしてほしい、というのだ。運が悪かったというべきなのは、たまたまオイコスで一緒に仕事をしていた人が団体に参加をしていて、事務所を連絡先に提供してほしいと頼まれたことで、夜間にかかってきたその電話を受けたのは、残った仕事を片付けていたわたしだったことだ。日本では「イルカ漁業」という漁業の一形態があり、水産庁が対象となるイルカの種類とその捕獲頭数を1993年以来決めており、道県の8箇所で知事が認可を出す物となっている。静岡県はそのうちの一つで、伊東市漁協にマダライルカ、ハンドウイルカ、スジイルカの捕獲を許可していた(現在、実施してきた富戸漁協はイルカ漁業から撤退している)。1996年の捕獲では、その対象種の一つ、ハンドウイルカが許可枠を超え、対象外であるオキゴンドウの捕獲も行われた。普通は、人目にあまりつかない捕獲場所での出来事だから、規則が守られるかどうか自己責任だが、そのときはたまたま発覚したわけだ。違反の通報の後、すんなりといった訳ではないものの、一部のハンドウイルカとオキゴンドウが解放され、その後に、すでに水族館に販売されていたオキゴンドウも解放されたという多分、日本で初めてのケースとなった。

 違反を判定する根拠となったのは、水族館用の捕獲及び、肉として使用するための捕獲を撮影したビデオで、IKANのメンバーととアニマルライツセンターの川口進さん(故人)によるものだ。

 それから1ヶ月ほど後のこと、川口さんから電話があった。「IKANにお金が入るよ!」という話で、ハワイで活動しているM・ベイリー氏から、アメリカの会社がビデオを買い取るので契約書に早急にサインをしてほしいと言う。ただ、彼は英語が苦手なので、その内容の確認をしてほしいと、内容とベイリー氏の手紙をファックスしてきた(現在も手元にある)。彼の手にビデオが渡った経緯についてはおぼろげながら、推測できた。事件から少し経って、IKANの立ち上げのもととなったH氏から、京都に住むアメリカ人がビデオ編集が得意なので、そこにオリジナルのものを送ってほしいという依頼があり、その後なんの連絡もなかったのでおかしいなとは思っていたが、ハワイに行っていたのは知らなかった。また、第三者に委託したことはなく、、早速、何人かの仲間と内容を検討したが、まず、ビデオの所有者としての川口氏とT氏の代理としてベイリー氏がなっており、さらに1年間は、IKANの活動にもビデオを使用できないことになっていた。運よく、当時グリーンピース・ジャパンに所属していた舟橋さんが、そのフィルムメーカーを知っており、早速連絡を取ってくれた。その結果、ビデオの所有権がIKANであることも認識され、商業目的以外での使用についての制限はなくなった。そしてフィルム1mごとの使用量がなんと倍になったのだ!

 しかし、H氏は、私たちのやり方を非難、せっかくベイリー氏が活動費を得るために努力したのに対して彼の顔に泥を塗ったと主張した。翌年、シャチ捕獲に際しても、海外活動家が網を切りに来たことに関して(H氏は座り込みと思っていたらしいが)協力を拒んだと、私は欧米の人たちに対して偏見を持って差別していると言われてしまった。

 もう30年も経っており、今更持ち出すことではないのかもしれないが、事実と異なる話も流れてきたこともあって、今のうちに私からの言い分も残しておきたいと思った。

 

2026年7月15日 (水)

正義?生理?

NGOの活動を続けて来たが、振り返ってみれば、活動の端緒は誘われたとか、その活動に関わる人は少ないが、発信することは重要かもしれないと言う程度で、正面切って正義を主張するようなことは一度もなかった気がする。どちらかというと、生理的にそうしないと気持ちが悪いと言う思いから活動を続けという曖昧な理由で、逆にあまり強く正義を振りかざすような態度には引いてしまうところがある。そうした私のあり方が変な誤解とか曲解を招くこともあるようだ。

いくつか具体的な事例を上げてみようと思う。

一つは、ある著名な野生動物保護の大御所で、コンラート・ローレンツの「ソロモンの指輪」を日本に紹介した作家のO氏だ。私にとってはひどい被害で、公開するほどのことでもないと思って黙ってきたが、すでに物故されたので、書き残ておこうと思う。

オイコスを編集していて、ワシントン条約会議で象牙の輸出入の禁止とその後の緩和の方向性への懸念から、当時のWWF日本委員会の担当者に取材を行った事がある。しばらくして、突然、O氏から電話が来た。オイコスの第1号で取材した事があり、それなりに当時は尊敬する人だった。

驚いたことに、象牙に関してアフリカで活動をしている人を支援する組織を立ち上げることにして、そのお披露目の広告を出すので、その口座を開設し、事務所として登録してほしいというのだ。当時は私自身、離婚して事務所の運営に苦労していた時期であり、とても受けられる状態ではなかったので断ろうとすると、彼は公衆電話からかけていてもう小銭がなくなったので、それでお願いします。広告は明日です、と電話を切られてしまった。よほど切羽詰まっているのだろうと思い、また、信頼されていると早とちりもし、まあ口座管理だけならなんとかなるだろう、と安易に引き受けてしまった。しかし、それだけで済む話ではなかった。

基金を集めるための様々な活動を求められ、ニュースを発行し、そのお金を送る際に、ケニアの銀行送付は危険とか、小切手にして遅れとか、現地にいる彼の教え子から随分無茶な要求が繰り返された。無休で奉仕する私をこき使うのは当然と彼らは思っているようだった。さらには、ワシントン条約会議日本開催に当たり、そのアフリカの代表が来日することになり、その世話とか、メディアへの紹介とか煩雑な仕事をすべて回され、事務所の運営されおぼつかないときに目が回るようで正常な判断もできない日々が繰り返された。O氏にとっての最大の楽しみは、助手を伴っての毎年のアフリカ旅行だということもその後知ったが、基金のおかげで結構現地でいい目を見ているようで、私にも一度行ったらどうかと言われたのだが、とてもではないがそれほど基金が集まる状態ではないし、私自身、日々の暮らしでいっぱいいっぱいだったのだ。

その後、ある出版社からの動物写真集に入れるキャプションを書く仕事をもらい、書いたところ、写真家が気に入らず、アフリカに行ったことがないことをその理由に上げたので(実際は、その後使われたキャプションは最初に書いたものだったので、なにか他の理由があったのかもしれない。心当たりがないこともないが)これはやはり一度見てきたほうがいいな、と決心して、タンザニアを訪問した。考えても見なかったことだが、自然の空気は思ったよりも体に良いらしく、出かける前から体調不良に陥っていたのがそれまで経験したことがないほど、体が楽になったことに驚いた。タンザニアの国立公園を巡るサファリで、たまたまレンジャーの人たちに遭遇したので質問することにした。時期は忘れてしまったが、その1,2年ほど前に、基金で、タンザニアで苦労しているレンジャーの人たちに医療キットを送るというプロジェクトを実施したことがある。そのキットの贈呈式の写真も現地から送られていたので、それが実際にどれほど役に立っているのか、知りたかったのだ。ところが驚いたことに、医療キットどころか、その団体名さえ誰もしらなかった。

帰国後、早速そのことを報告をすると、O氏と助手さんは顔を見合わせた。

それから少し後で、なんの相談もなく、O氏が選任した3人の理事が、事務局の運営に携わることになったと伝えられた。大学教授など、研究者の人たちで、実際に事務所に来られたので、勝手だなあと思いながら断ることもできなかった。事務局が2回ほど行われたが、具体的に何かが変わるということもなく,その人達からなにか提案があったという記憶もない。しかし、O氏から新たな新聞広告を打つと聞かされたときに、医療キット問題もあったため、できませんと反対したところ、「事務局長を解任する」と突然言われ、理事たちが(一人を除き)賛成したので、私は解任され、事務所として機能してきた当時のオイコス事務所も使われないことになった。翌日、「このことを何処かに暴露すれば、NGO全体に大きな悪影響があるから、決して外に漏らさないように」という脅しの電話がかかってきた。騒ぎ立てるほど暇でもなかったのでそのままにしたが、実はその間に、野生生物保護の別組織を着々と組織していて、私はいずれにしても邪魔だったということがわかった。もともと無理なことを引き受けた私が馬鹿だったのだと後悔はしたが、すでに遅かった。

 

 

2026年7月 2日 (木)

反捕鯨への肩入れの始まり

 小学校を卒業した春休み、父親が「日本抒情詩抄」という本をくれた。近代の日本の詩人をほど網羅したもので、父親は島崎藤村とか、高村光太郎などを知ってほしかったのだと思う。真面目で活字好きだった私は、愚直にはじめから読み始めた。しかし、父親の期待を裏切り、その中で一番気に入ったのは堀口大學のページで、彼によるフランスの詩人アポリネールの「ミラボー橋」の訳詞だった。シャンソンにもなった詩だということを当時は知らなかったが、「日も暮れよ、鐘も鳴れ、月日は流れ、私は残る」という繰り返しが忘れられないものになった。

 その後、多分高校生になってから、本屋さんの店にアポリネールの詩集があるのに気がついた。同じ堀口大學の訳詞、新潮社から出版されたものだ。その当時私は絵描きになろうとしていて、フランスには漠然とした憧れがあった。また当時、国内で結構フランス文学が盛んで、カミュとか、サルトルとか、新潮社の棚に行けば読みたいものがたくさん見つかった。ジュネもそこで見つけ、とくに「花のノートルダム」が私の当時の愛読書だった。私にとって、新潮社とは、そうしたあこがれの書籍を出版してくれるところだったのだ。やがてそれが裏切られる(?!)ことになろうとは思わなかったのだが。

 1980年代の半ば、町医者の待合室で順番を待つ間、おいてある週刊誌を暇つぶしに見るために手に取った。「週刊新潮」で、ぱらぱらと見ているときに、コラムで反捕鯨の活動家への誹謗中傷と思われる文章を見た。彼女の相手が外国人だから、その相手の主張を受け売りして反捕鯨を標榜していると、暗にそのあり方が娼婦のようだと言っているものだ。当時、捕鯨問題については全く何も知らなかったが、このコラムに憤ったと同時に、きっと反捕鯨の論理には何がしかの必然性があるのだろうと思った。そうした誹謗にもめげずに毅然と活動している彼女に羨望さえ覚えた。それがその後、クジラ問題に取り組むきっかけとなった亀井ナヲミさんだ。

2026年5月21日 (木)

記憶ーかつて民主主義が’当たり前’だった頃

 猫のトイレ砂を買った帰り道、中断していた雨がまた降り始めた。雨に濡れることに対しての忌避感は、かつて母親から「(雨の中に)放射能がまじっているから、濡れてはダメ」と言われたことを記憶しているから、とふと思った。1954年、アメリカがビキニ諸島で行った核実験により、日本のマグロ船が多数被爆したことで明らかになり、当時、子どもたちは親からそんな警告を受けていたのだった。

 当時、私は小学生だったわけで、詳細についてはずいぶんあとになるまで知らなかったのだが、記憶というものは思いがけないときに蘇るものだ。

 そこから、縫い糸がほどけていくように、かつての様々な記憶が蘇ってきた。家から学校や駅に行くのに、鉄条網で囲われた広いアメリカ軍の基地(単に兵舎と呼んでいた)を迂回していたこと、校門の真正面に兵舎の大きなゲートがあり、朝夕、アメリカ国家の演奏とともに、星条旗が上げ下げされるのを見ていたこと。度々あった担当の教師の不在のときの代替の教師の一人が非常に話し上手で、戦争中にあったガソリン不足のため木炭で運行したいわゆる木炭バスの話や、風船に括りつけて飛ばした風船爆弾、更には行きの燃料だけで突っ込んだ特攻隊や人間魚雷の話を聞き、時には息を呑み、時には大笑いすることもあった。また、クラスメートの中には中国や朝鮮の人たちもおり、そんな子たちが同じクラスの子たちからハブられるのも見てきた。私自身、クラスに溶け込めない、いじめられっ子だったので、そうした’外れた’子たちのほうに親しんでいたのだが。あるとき、先生から、休んだ子の一人に宿題を届けてほしいと言われ、訪ねたことがある。その家は、大雨のたびに溢れ出る川のすぐそばにある互いに身を寄せ合っているように見えるバラックの一つで、本人は不在だったが、中は薄暗く、土間はしめっており、(こんなところに住んでいたのか)と酷くショックを受けたことを思い出す。その先生は、お弁当を持ってこないその生徒にこっそり買ったパンを渡したり、修学旅行に行くお金の工面をしようとしていたこともあった。子どもたちにそれとなく、差別とは何か、公正さとは何かを教えてくれていたのだと思う。

 みんな貧しくて、貧しいという意識もそれほどない時期でもあったが、おとなたちが、日々の暮らしの中でかつての大きな過ちを二度と繰り返すまいと決意していたことは折に触れて感じられ、子供心にそうした恐ろしいことは二度と起こるまいと信頼していた事も思い出した。

 それらは勘違いか絵空事だったのか。

 この頃は朝の新聞を開くのが怖い。私よりも若く、戦争中に起きた加害の事実に対して「自分は関わっていないから反省しない」ということを平然と言い放つ人を国の代表として選んでしまった。反省しない立場だから、人を殺す武器で儲け、核保有国の核の使用を認めるようなことも平気のようだ。しばらく前から、考え方の中心軸が、片方にジリジリと動いていくことは知っていたのだが、そのまま傍観しているうちに、当然のことながら国内全体で、動かされた先の軸を「公正・公平」と受け入れてしまい、それが今に至ったのだと反省し、時には抗議集会に参加したりもする。大抵は途中で疲れ果てて、翌日は寝込んでしまう体たらくだが。

 私は、今も昔もはぐれもの意識が強いので、安定した当たり前とされることには疑問を持ってしまう。だからこそ、国策として’自然’になってしまっていた捕鯨問題に、それまで興味もなく、知識もなかったというのに、ダラダラと向かい合い続けたのだ。おかしさに気づいてしまった以上、もう後戻りができなかったのだ。しかし、未だに獲りたい人たちは商売を続け、利益を上げようと頑張っている。それに’寄り添う’政府・関係者は、その歪さも、異様さも多分知ったうえで相変わらず屁理屈を繰り返して恥じることがないらしい。

 

 

2022年10月27日 (木)

ピラン

IWC68は、ポルトルツ(ポルトリュージュ)のベルナルディンホテルで開催されたが、私たちの宿泊したマリン・バイオロジーセンターの入っている国立バイオロジー研究所の住所はピランだ。写真右がベルナルディンで、左がNBI。私たちは、ベルナルディンの宿泊客がビーチに出るための入り口からエレベーターで12階会場まで行けたので、到着までものの数分だった。                                        Img_1618

ピランは、ヨーロッパでの美しい街30選に入るそうだが、スロベニアを代表するとされる音楽家のタルティーニを冠した広場を中心に、やや密集した感じの古くて美しい建物がアドリア海を臨んでいる。そして街を見下ろす高台に、聖ジョージ教会、修道院が城壁に守られて立っている。

会議冒頭でのピラン市長挨拶にもあったように、スラブ系の民族だけでなく、かつてベネチア共和国に属したこともあり、イタリア文化も浸透し、また、イスラム系の文化もあって、さまざまな文化の交差する場所でもあるようだ。

ピランのバスターミナルから、1時間に4、5本の無料バスが出ており、昼休みを利用して、宿泊場所から街のスーパーまでちょっと買い物ということができ、一度は教会まで急な上り坂を登り、頂上からアドリア湾に面する街を見下ろすという贅沢もできた。秋も深まっていく中、気温は暖かく、静かな海で泳いだり、ヨットを楽しんでいる人たちも少なくなく、バスはいつでもほぼ満杯という状態で、中心部には観光する一団や、学生たちの集団もみられた。

通常、IWC会期中にこうした観光ができる機会は少なくて、今回は宿泊施設に感謝しかない。多分、研修施設として設置されている部屋代は格段に安く、向かいが共同キッチン兼ダイニングという、信じられないような好条件で、ほぼ外食なしで安く済ますことができたのも乏しい財布の中身から、また、ターキッシュエアラインの都合で、滞在日数が増えた事情からも、大変ありがたいことだった。

「IWC事務所をスロベニアに移しちゃったら?」という声が聞こえるほど、これまでスロベニアは本会議だけではなく、科学委員会の主催地にもなってきた。科学委員会はブレットという湖のある別の観光地なのだが、次回も科学委員会はそこで行われるようだ。

私たちにとっても3度目の訪問で、それなりにリラックスもできたいい思い出が残る会議だったと感謝している。

 

2017年11月11日 (土)

ミートフリーマンデイ

かつて、60年台始め、ビートルズがまだ’大人’に受け入れられていない頃、友人たちに訝られながらも迷いなく支持してきた。今では嘘のような話。で、その頃はジョンのファンでしたが。

http://www.onegreenplanet.org/news/paul-mccartney-tells-world-to-go-meat-free/?utm_source=Green+Monster+Mailing+List&utm_campaign=70d96db1c8-NEWSLETTER_EMAIL_CAMPAIGN&utm_medium=email&utm_term=0_bbf62ddf34-70d96db1c8-106932221

2016年8月 2日 (火)

追記:アクティブラーニング?

 7月23日のシンポジウムは、2大学の交流学習をベースに、3つの議論を呼び起こしそうなテーマをめぐっての、学生たちによるパネルディスカッションの試みだった。もちろん、議論には、賛成派と反対派が存在する。
今はやりのいわゆる「アクティブラーニング」と呼ばれる形式なのだろう。
 しかし、前のブログに報告した通り、この賛成、反対はかなり限定的な情報と考え方を土台とした、行き先が見える議論だ。もちろん、担当する教師による評価に関係してくることでもある。
 多分、ゴリゴリに教えこむより、より効率的に思想教育ができる危険性がある学び方だと感じた。
 
 

2015年10月 3日 (土)

地方創成の行方は???

私たちの力量不足ではあるが、日本政府の推進している捕鯨政策とそれに反比例する需要の激減、大手企業の捕鯨産業からの撤退、調査捕鯨のいかがわしさについての国際社会の反発、国際司法裁判所の判定など、ここまで問題が明らかになってきているというのに、無批判に伝統だからと捕鯨を礼賛する国内意見(映像や書き物など)は一向に減らない。

まだ読んでいないので、もしかしたら書評を書いた人の思い込みかも知れないが、またしても1冊、そのように感じられるものが出たようだ。

→ここから
 http://www.nishinippon.co.jp/nlp/reading_guide/article/198320
 西日本:書評_捕鯨の是非に揺れる現代にこそ読むべき、捕鯨に生きる人々の物語
  2015年09月30日13時40分 (更新 09月30日 13時54分)
 鯨分限 伊東潤 著

 和歌山県太地町は、古式捕鯨発祥の地といわれる、まさに「クジラの町」だ。
 江戸期に捕鯨技術を発達させ、鯨油や鯨肉で大きな富を築いた。時代が変遷して
 も捕鯨とともに生き、今も税収の3割が捕鯨によって創出されている。

え??税収が3割も捕鯨によって創出?と違和感を覚えて、知り合いに聞いてみた。
すると、

 <太地町の町税は平成26年度の決算によると約2億5千6百万円。
 そのうち個人の町税は約1億円。後は法人税、固定資産税、軽自動車税、たばこ税、
 入湯税で約1億5千6百万円。
 約1億円の個人の町税のうち追い込み(現在は12隻、24名)と正和丸(5名?)
 の乗組員の所得で(税収が)約3千万円ということは現在あり得ないと思う。>

という回答がかえってきた。
以前から何回も指摘している事だが、太地のような町は、原発のある町と同じように、国からの補助金で成り立っているようなものだ。実際に太地の一般会計の25億のうち、9割は町におりて来る補助金や過疎債。確かに見た目は福祉政策など一時的に進むかもしれないが、それが将来にわたってどのように地方に力をつけていく糧になるかはかなりあやしいところ。
地方創成などと言っているが、このようなやり方で地方の健全な自立などありうるのだろうか?地方自治によって、地方行政が自立し、力をためる代わりに、じゃぶじゃぶと税金をつぎ込んで都合良いように操るようなやり方は、誰のためにもなっていないと思うのだが。

2015年9月19日 (土)

入間ジョンソン基地跡地 防衛省案’受け入れ’

 今朝方の採決はインターネット中継で見た。いちいち合点のいく、野党の意見、その涙ぐましい奮闘を応援しながら、なんでこんなことになっちゃったのか、と自問しつづけていた。
 火曜日から、昼の時間は国会前の活動に参加することにしていて、昨日もそうだったのだが、迂闊なことに、実は地元でも消さなければならない火種が灯っていたのを見過ごしてしまっていた(消すのは難しいかが)。
 入間市議会が開催されており(なぜか私は月末と誤解していた)、昨日がその最終日で、田中市長が終了挨拶で、ジョンソン基地東側の跡地について、防衛省の計画案を受け入れると表明したのだ。
 市長肝いりの審議会答申を受けての一種の茶番劇で、市民は賛成しているわけではないのだが。
 南海トラフ地震、首都圏直下型地震と、来るべき災害に対する拠点整備だと言えばなかなか反対しづらい。しかし、そうした懸念に対しての苦渋の決断ではなく、市長的には現政権の方向に合致している計画そのものがウエルカムなのだと思う。
 大災害の対策を実施することは、どこか遠くでアメリカ軍の下請けをするよりも前向きであることは確かだ。しかし、ならば、残された28haの緑地で行うというみみっちい計画ではなく、すでに整備されている300haの自衛隊基地をそのまま災害対策拠点にするくらいの気構えでなければ、と感じる。この曖昧な計画で、政府が日本の人々が今後受けるかもしれない大災害に、真剣に向き合っているといえるだろうか?

2015年6月22日 (月)

そういえばこんな手紙を書いた事が・・・

 そういえば、孫が動物園に遠足に行った後、こんな手紙を書いたのだった。
後に機会があってその幼稚園に行ったとき、多くの先生から手紙の事についての感想をいただいた。多くが知らなかった事を伝えた事への感謝だった。

ここから:


動物園への遠足について
            倉澤七生(○○組 ○○祖母)
○○先生、
○○幼稚園のみなさま、

 いつも子どもたちによい保育環境をくださってありがとうございます。
 日頃のご検討に敬意を抱くものとして、今回の動物園への遠足について一言意見を申し上げたく、手紙を差し上げることにしました。固い信念のもとに保育を実践されている方々に申し上げるのも僭越かと思いますが、どうか年寄りの繰り言とご勘弁くださいますよう。
 結論を先に申し上げますと、私は現在の多くの動物園における野生動物の飼育に否定的な考えを持っております。以下になぜ私がそう思うか、その理由について説明いたします。

 私は、1987年より10年余、エコロジー雑誌「オイコス」を企画・編集・発行していました。雑誌では、様々な環境問題に取り組む市民活動や世界の環境や自然にまつわる情報を紹介し、また自らの実践にもつなげてきましたが、そのテーマの一つが自然保護、動物の福祉でした。

 「いきものを大切に」という言葉は今では当たり前にいわれ、「いのちの重みはみな同じ」ということばもよく聞かれますが、実際にこれを実践し、実現することはなかなか大変なことです。しかし、このことばは今日、単なる修辞や一部の人たちの倫理観としていわれるのではなく、将来的な人の生存の観点から非常に重要だと認識されるに至っています。
 自然や動物の研究や調査を通じ、私たちは、自分たちも自然の一部であり、それを破壊することは自分たちに跳ね返ってくることだということを理解するようになりました。それと同時に、そうした研究により、動物たちと人間の距離というものは以前に思っていたように遠いものではないということを日々学びつつあります。動物たちの中には、力や攻撃性ではなく、知性と経験でリーダーを選ぶゾウやシャチのような生き物がいます。社会的な動物の多くが仲間の死を悼み、再会を喜ぶ私たちと同じ喜怒哀楽の感情を持っていることが動物の行動研究によりわかるようになってきました。これまで私たち人間はそうした動物たちを「人間ではない」という理由で、意識もしないままに捕獲し、食料とし、駆除し、閉じ込め、人に都合の良いように改変してきました。
 しかし時代を経て、動物たちへの人間のあり方について、国をまたがる条約や各国の政策の中で、強弱こそあれ規制がかけられるようになり、また、動物の福祉の観点から法律が作られるようになりました。
 ボリビアなどのように、自然の権利に関する法律を作った国もありますし、ドイツのように生き物の権利に関して憲法で保証する国もあります。
ボリビア「母なる大地の権利法」
http://cade.cocolog-nifty.com/ao/2010/12/post-ad79.html
ドイツ「ドイツ憲法の動物の権利」
http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/legis/214/21406.pdf
 また、多くの国々が動物の福祉に関連する法律を制定し、展示する動物の飼育基準を作成しています。日本にも動物の愛護と管理に関する法律がありますが、数値目標などの具体性に乏しいため機能を十分果たしていないうらみがあります。
環境省 動物の愛護と管理に関する法律
http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/1_law/outline.html
(1)基本原則
すべての人が「動物は命あるもの」であることを認識し、みだりに動物を虐待することのないようにするのみでなく、人間と動物が共に生きていける社会を目指し、動物の習性をよく知ったうえで適正に取り扱うよう定めています。
展示動物の飼育基準
http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/laws/nt_h160430_33.pdf
第1 一般原則 1 基本的な考え方
管理者及び飼養保管者は、動物が命あるものであることにかんが み、展示動物の生態、習性及び生理並びに飼養及び保管の環境に配慮 しつつ、愛情と責任をもって適正に飼養及び保管するとともに、展示 動物にとって豊かな飼養及び保管の環境の構築に努めること。また、 展示動物による人の生命、身体又は財産に対する侵害の防止及び周辺 の生活環境の保全に努めるとともに、動物に関する正しい知識と動物 愛護の精神の普及啓発に努めること。
 
 ここで重要なのは、「人と動物が共に生きていける社会を目指す」という言葉ですが、「共に生きる」とは一体どういうことなのか、どうすれば人間以外の生き物を尊重できるのか。それを理解するには、動物たちの生態(暮らす環境や暮らし方)を科学的に知リ、彼らの生き方を尊重する、それができない場合は生態に沿った環境作りに務めることが必要ではないでしょうか。中には、あまりに環境が違いすぎて人が飼育できないものもいるかも知れません。
 私は、そうした認識を後天的な知識としてではなく、当たり前の感覚として養っていくことが非常に重要だと考えています。ですから、子どもたちの初期的な自然や動物に関する教育のなかでは、こうした動物たち(特に人間が開発したものではない野生動物)の生態を理解することが不可欠だと思います。
 残念ながら、今の日本の多くの動物園ではそうした最初の教育を与えることができていないと私は感じています。野生動物を仲間と隔離し、その生活環境とは遠く隔たった狭くて人工的な施設に生涯閉じ込めるということを、子どもたちが「見て実感する」という大義の上で当然と見なしているからです。子どもたちは、確かにその動物の大きさとか、肌触りのようなもの、鳴き声などを観察できるかもしれません。しかし、彼らが生来どのような環境で生活をしているのか、どういった行動をとるかは、コンクリートの床や散らばる人間由来の餌、孤立して、限られた空間で知ることは大変むずかしいことです。
 また、その野生動物がどのようにして連れてこられたのか、ということも重要です。私は、以前に希少動物のシャチの捕獲を目撃したことがあります。前の日までお母さんのおっぱいを飲んでいたと思われる子どものシャチも捕獲され、その4ヶ月後には死んでしまいました。まだそのときの子どもの鳴き声が私の耳に残っています。

 その動物をその動物たらしめているものは、その個体だけでなく、何十億年と適応してきた環境や共存してきた他の生物の存在です。環境から切り取って、生き物を単一の姿形だけで認識することは、時に大きな間違いにつながります。野生の動物をあたかも犬やネコなど、ペットと混同している人たちは少なくありませんが、こうした既に植え付けられた勘違いを正すことは大変難しいことです。しかし、子どものまだ大人よりはまっさらな感覚で見る場合、大人とは異なった反応も期待できると私は考えます。
 実際、いただいたおたよりの中に、子どもの感想の一つとして、マントヒヒがぐるぐると回っているのを見て、「なんでだろう?」という健全な疑問を抱いた子がいたということが書いてあったのを見つけ、うれしく思いましたし、またその言葉が、私が手紙を書こうと言う勇気をくれたのでした。ちなみにこの行動は「常同行動」といって、生来の活動を阻害されてしまった動物が、目的もなく同じ行動(ぐるぐる回るとか、頭を振り続けるなど)をする異常行動で、日本の多くの動物園でしばしば観察されることです。

 私の知り合いにズーチェック(ZooCheck)という動物園オンブズマンのような組織を立ち上げた人がいます。その人は、これまで世界二千カ所以上の動物園を見て、その点数をつけ、動物園や活動している人たちにアドバイスをしてきました。その基準となっているものは、動物の科学的な生態です。その点から彼は、現状での動物園で動物を見ることが、少しも子どもたちの教育になってはいない、と言っています。

ズーチェック カナダ http://www.zoocheck.com/
ロブ・レイドロー氏 インタビュー「動物にとっての動物園」
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/237

 私も一度彼につきあったことがありますが、例えばカメの水槽の前で、カメが人前ではじっとしているから不活発だとたいていの人は考えるが、実際は夜間にかなりの距離の移動を行う動物なので、狭い水槽に入れておくことはカメに苦痛を与えることだ、と言われたのに少し驚きました。しかも、隠れ場所もなく、人が水槽を叩いたりすることでよけい大きなストレスがかかっている。こうしたひどい展示が行われる問題は、飼育する人たちや経営者が十分な生態への知識を持っていないことだ、と。
 彼は最近も、カナダの動物園で飼育されていたゾウを、ゾウたちのサンクチュアリに移す計画が進行中です。こうした地道な活動を、彼は何冊かの本にしていますが、残念ながらまだ日本語に訳されてはいません。

 子どもたちの教育は次の世代につながっていきます。私自身は動物園での野生動物飼育は、野生動物のことや自然のことを知るのではなく「弱いものには何をやってもかまわない」というメッセージになるのではないかと危惧しています。また、野生動物と家畜動物やペットとの違いを知ることも阻害し、結局は自然や動物の保全に逆行するのではないかと思います。

 私は動物園に行ってはいけない、と主張したくてこれを書いたわけではありません。ただ、子どもたちには動物たちが、元は自分の生活を持っていたこと、好き好んで狭い檻に入っているのではないことを機会があれば伝えてくださることを望みます。また、これをきっかけに、人間が自然とつながっていること、自分たちの都合で好き勝手に振る舞っていいわけではないことを子どもたちに伝えていただきたいと思います。
 地球上の有限な自然資源は、既に持続的な消費の上限を超えているという報告もあります。自然とのつながりを理解することは、将来世代が生き残る道でもあるはずです。

 子どもたちが心も体も健かに成長していくことの、なかなか難しい時代にあると常に感じています。しかし、日々の子どもたちの成長の中に、希望が残っていることを信じています。
 
 長い手紙をお読みくださってありがとうございました。
                          (2012年 11月2日)