最近では人様への連絡も、概ねメールやSNSなどで済ませることができて、文字を書く機会はほぼなくなったわけだが、これは、という時にはハガキや手紙に実際に書くように努力している。使っているのは60年近く前に父親からもらったシェーファーの万年筆だ。自分にとって大切なモノは、時としてあたかも生き物のように感じ、扱うということがある。
一方で、私のうちには2匹の猫と1匹の犬がいる。実際の生き物に対しては、それほど’大事に’扱っているという意識はないが、彼らが何を感じて、あるいは何を欲しているかということを日々感じずに済ますことは難しい。
すでに年寄りの域に入っている猫たちは、まったく空気の読めない若い犬が苦手で、できるだけ近づかないようにしている。安心できる場が減ったために、こちらが用意した居場所は拒否し、叱られても叱られても埃だらけの隅っこにいたがるかと思えば、夜はテーブルの上で寝ていたりする。気に入らないことがあると、私以外の人の膝に乗って、ちらりと人の顔を見たり、場合によっては、仕返しのつもりかこっそり衣類などにおしっこをかける。
犬の方は、ホームセンターの片隅のペット屋に10ヶ月も売れ残っていた白い雑種を、見かねた娘が引き取ったもので、幼すぎるうちに親と引き離された典型の「噛みつき」と「むだ吠え」癖がある。それでも最近は、噛みつきかけてハッとして引き下がり、申し訳なさそうに畏まるようになってきた。ものを大切にする場合とは異なり、生き物との付き合いは、彼らが人との生活を学んでいくとともに、人も彼らを知り、付き合い方を学んでいく過程なのだと知らされる。
この過程をどう認識しているかは、扱い方に関係してくる。「愛護」という困った言葉が動物との関係で公用語にされている関係上、人が一義的に動物の上に立ち、その上で人の思うように可愛がったり、あるいは無下に扱ったりしていいような考えがまかり通る。彼らのニーズに応えているのか、あるいはそのつもりであっても自分勝手な思い込みから、動物たちの求めを無視したり、さらには虐待しているかどうかは、その動物たちの要求がどのように受け止められているか、と言う相手あってのことだが、相手は人の言葉を喋らないのだから、実際はわからない。そこで最近では、その動物の生態とか生活史を科学的に検証して判断する、基準を設けるというのが国際的なあり方だが、日本ではまだそこまでたどり着いてはいないのが実情だ。一つには、やはり人が絶対上という考え方が一般的であって、動物の側に踏み込んで判断するということは特殊な人たちという先入観があるからだろう。
先日、選挙のために馬を引っ張り出している人がいることを知った。この方は、繰り返し、子ども達に学べ、子どもたちの声を聞くべしと言っている。そして、馬を登場させることでこれまで人が作り上げてきた人工的な環境がどれほど人を損なうかということを人々が認識すべきだという。
(私は、馬は選挙に出てどんな得をするのか?馬の声は聞いいたのか?と思うのだが、まあそれはさておき)
馬は野生動物というより、ずっと人間と暮らしてきた動物なのだから、馬が歩けないような街の方がおかしい、というようなことも言っていて、それはその通りだ。馬が息の詰まるような場所はもちろん、人にとっても快適な場所とは言えない。だからと言って、選挙運動の人ごみの中の馬を見て、大方のおとなはもちろん、子どもたちが違和感を感じて「馬がかわいそうだよね?何とかして」というような反応をするだろうか?水族館のイルカのように、そこにいるのが当たり前の消費物(見るもの)に成り下がるだけではないのだろうか。
都会に、馬も子どもも溢れるような空間を創出するのにはどうすればいいのか、ということをこの方の説明からは見つけられなかった。今の記号化された、現実感の阻害された世界をどう直視し、回復していくのか。自然と切り離され、自然を怖いとさえ思うような子供たちも増えている現状を見れば、’子どもたちの声を聞け’というだけでは解決できないのではないかと思う。しかし、その方は「馬がいても不自然ではない空間を」ともおっしゃっているようなので、そこに解決のヒントがあると思った。
馬も人も快適な空間を創出する具体的な計画を公約にしてもらったらいいのだ!
例えば、都心から車を追い出して、道路のコンクリートを引っぺがす。海からの風を遮るような建物を作らない(汐留の駅で感じたのだが、Dn2とかKdoのそびえ立つビルの真ん中に大きな風穴を開けたいと思ってしまう)。道路に埋めてしまった川を生き返らせ、そこを風の通り道にして公園と公園を、小さな木立と木立を緑のコリドーで結び、緑の中での暮らしができるように都市の再開発をする。
「そんな夢みたいなことを」という方がいるかもしれないが、すでに幾つかの国ではそうした試みが行われ、実際にかなり成功したところもある。カナダでは、IOCのエコなオリンピックという求めをうまく利用して、オリンピックを機に、緑のまちづくりが始まった。海からの風の通り道の確保や、緑の遊歩道、熱を放射しない舗装の方法、あちこちにある緑あふれる公園とそれをつなぐ回廊など。その試みは、様々に修正され、まだ続いている。
https://vancouver.ca/files/cov/greenest-city-action-plan-implementation-update-2018-2019.pdf
都市の緑化は日本ではかなり限定的な使われ方をしているし、世界中の子どもたちが自分たちの将来の権利を奪わないで、と気候変動問題で大きなデモなどもしているにかかわらず、残念なことに、今回選挙ではどこも主要課題に挙げなかった。
喫緊の課題である気候変動対策や防災対策としても都市のグリーン化(持続的なまちづくり)は非常に有効だ。そうした都市の改変は一極に集中している今の都市の在り方を変える方向に向かうだろうし、人々の暮らしや健康にも貢献する。
例えば、世界保健機構が出している都市の緑と健康に関する報告書を見ればそのことは明らかだ。
https://www.cbd.int/health/who-euro-green-spaces-urbanhealth.pdf
きれいな空気と水、そして息をすることができる空間は金持ちのためのものではない。
私は毎朝、毎晩、片道15分の道を、夏は日照りの中、冬は空っ風の中、通り過ぎる車を横目で見ながら通勤している。毎度ここに緑の並木道があれば!と願うが、車を購入したいとは一度も思ったことはない。自分だけが車を持つことが解決ではないことを知っているからだ。
基本的に、きれいな空気、水そして緑は、自然の与えてくれる恵み=ただのものなのだ。人(そしていうならばすべての生き物)にとっての権利なのだ。
だから、緑の公共事業の推進は、きっとあなたも馬も幸せにする!?
それにね、もう一つ。子どもの声を聞け、というなら、まずこれをご静聴あれ!
グレタ・トゥーンベリはもう有名すぎるほどの子どもだが、毎回、私は自分の不甲斐なさを思って泣かずには聞けない。
https://www.youtube.com/watch?v=VFkQSGyeCWg
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