« 旅の記録 その2 オーストラリア | トップページ | 広島で南極条約会議が開催された »

2026年5月21日 (木)

記憶ーかつて民主主義が’当たり前’だった頃

 猫のトイレ砂を買った帰り道、中断していた雨がまた降り始めた。雨に濡れることに対しての忌避感は、かつて母親から「(雨の中に)放射能がまじっているから、濡れてはダメ」と言われたことを記憶しているから、とふと思った。1954年、アメリカがビキニ諸島で行った核実験により、日本のマグロ船が多数被爆したことで明らかになり、当時、子どもたちは親からそんな警告を受けていたのだった。

 当時、私は小学生だったわけで、詳細についてはずいぶんあとになるまで知らなかったのだが、記憶というものは思いがけないときに蘇るものだ。

 そこから、縫い糸がほどけていくように、かつての様々な記憶が蘇ってきた。家から学校や駅に行くのに、鉄条網で囲われた広いアメリカ軍の基地(単に兵舎と呼んでいた)を迂回していたこと、校門の真正面に兵舎の大きなゲートがあり、朝夕、アメリカ国家の演奏とともに、星条旗が上げ下げされるのを見ていたこと。度々あった担当の教師の不在のときの代替の教師の一人が非常に話し上手で、戦争中にあったガソリン不足のため木炭で運行したいわゆる木炭バスの話や、風船に括りつけて飛ばした風船爆弾、更には行きの燃料だけで突っ込んだ特攻隊や人間魚雷の話を聞き、時には息を呑み、時には大笑いすることもあった。また、クラスメートの中には中国や朝鮮の人たちもおり、そんな子たちが同じクラスの子たちからハブられるのも見てきた。私自身、クラスに溶け込めない、いじめられっ子だったので、そうした’外れた’子たちのほうに親しんでいたのだが。あるとき、先生から、休んだ子の一人に宿題を届けてほしいと言われ、訪ねたことがある。その家は、大雨のたびに溢れ出る川のすぐそばにある互いに身を寄せ合っているように見えるバラックの一つで、本人は不在だったが、中は薄暗く、土間はしめっており、(こんなところに住んでいたのか)と酷くショックを受けたことを思い出す。その先生は、お弁当を持ってこないその生徒にこっそり買ったパンを渡したり、修学旅行に行くお金の工面をしようとしていたこともあった。子どもたちにそれとなく、差別とは何か、公正さとは何かを教えてくれていたのだと思う。

 みんな貧しくて、貧しいという意識もそれほどない時期でもあったが、おとなたちが、日々の暮らしの中でかつての大きな過ちを二度と繰り返すまいと決意していたことは折に触れて感じられ、子供心にそうした恐ろしいことは二度と起こるまいと信頼していた事も思い出した。

 それらは勘違いか絵空事だったのか。

 この頃は朝の新聞を開くのが怖い。私よりも若く、戦争中に起きた加害の事実に対して「自分は関わっていないから反省しない」ということを平然と言い放つ人を国の代表として選んでしまった。反省しない立場だから、人を殺す武器で儲け、核保有国の核の使用を認めるようなことも平気のようだ。しばらく前から、考え方の中心軸が、片方にジリジリと動いていくことは知っていたのだが、そのまま防寒しているうちに、当然のことながら国内全体で、動かされた先の軸を「公正・公平」と受け入れてしまい、それが今に至ったのだと反省し、時には抗議集会に参加したりもする。大抵は途中で疲れ果てて、翌日は寝込んでしまう体たらくだが。

 私は、今も昔もはぐれもの意識が強いので、安定した当たり前とされることには疑問を持ってしまう。だからこそ、国策として’自然’になってしまっていた捕鯨問題に、それまで興味もなく、知識もなかったというのに、ダラダラと向かい合い続けたのだ。おかしさに気づいてしまった以上、もう後戻りができなかったのだ。しかし、未だに獲りたい人たちは商売を続け、利益を上げようと頑張っている。それに’寄り添う’政府・関係者は、その歪さも、異様さも多分知ったうえで相変わらず屁理屈を繰り返して恥じることがないらしい。

 

 

« 旅の記録 その2 オーストラリア | トップページ | 広島で南極条約会議が開催された »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。