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2021年11月22日 (月)

それは1999年の鳥獣保護法の改正で始まった

調査捕鯨の開始前後から捕鯨推進のキャンペーンはより激しくなった。1980年初めに各大手新聞社の中にそれを声高に主張するジャーナリストが育成され、いわゆる有識者と呼ばれる人たちの中にも捕鯨推進に肩入れする人たちがいて、国内では反対意見がなかなか表面に出ることができなかった。1987年に出したオイコス2号のクジラに関するもう1つの立場を表す特集号は、捕鯨政策に批判的な人もなかなか表には出てくれず、取材相手がなかなか見つからなかった。客観的な立場で捕鯨問題を扱ったジャーナリストなどは、激しい捕鯨推進派の攻撃にうんざりしており、私たちに付き合ってくれなかったほどだ。そんな中では、市民活動をする人たちも捕鯨については推進、あるいは黙認という状態があり、国内でのクジラ保護の前には高い壁が立ちはだかっていた。

オイコスではその後も度々クジラ問題を取り上げたものの、それまでの国内活動の経験から’クジラ’に特化した活動の限界を強く意識しており、オイコスでのさまざまな関わりから、国内の環境分野で活動する大小の自然保護や動物保護団体とのつながりを持っていたが、ある時、知り合いから1998年初めに浮上した「鳥獣保護法」の改正(悪)問題をなんとかしたいという相談を受けた。しかし、法改正問題に立ちむかうためには、大きなネットワークを組織する必要があると、当時、事務所をお貸ししていた「ツキノワの会」という自然保護団体を主導するWWFーJの草刈秀紀氏に持ちかけ、彼を代表とする「鳥獣保護法改正を考えるネットワーク」を立ち上げ、日本野鳥の会や日本自然保護協会に呼びかけて保護法改正問題に共同で立ち向かうことにした。ニュースレターの発行や3回に及ぶ各地の当事者を交えてのシンポジウム、農水(初めての試み)を含む省庁との意見交換など精力的な活動を心がけ、鳥獣保護法というごく一部の関係者以外関心を持たないトピックの広がりを進めた。

特に、私たちが当時懸念したのは、「特定鳥獣保護管理計画」で、十分な保全・管理の備えを担保しないままでの地方移譲への移譲が、野生鳥獣の管理に適切ではないのではないかという懸念を持っていた。そんな中、北海道での先行的な管理の一端としてのエゾシカ狩猟の活発化によって使用される鉛弾による絶滅危惧種のオオワシやオジロワシの鉛弾による中毒問題がその懸念を確信させることになった。仲間の写真家やメンバーが現地に向かい、証拠となる写真が届けられた。私たちの働きかけなどもあり、メディアの脚光を浴びたことから、鳥獣保護法が初めて国会で大論議を呼び、それまでほんの一部の関心しか呼ばなかった野生生物保護問題が市民の関心を集めることになった。環境庁との意見交換(というより、当時高い壁のあった環境庁との対決といったほうが正しいかもしれない)私たちの中でもほとんどの人が経験していなかった議員会館もうでも活発に行われ、当時まだ元気だった野党の強い攻勢により、法改正があわや廃案というという前代未聞の事態にまで行った。

環境庁は、せっかくの法案を廃案にするあけにはいかないという判断から、日本自然保護協会の担当者に働きかけがあり、(活動してきたいくつもの団体ではなく、その中の1つの大手にだけ持ちかけるのは姑息なやり方だったと思う)、力量不足の自覚の中、抗議書をおくるとともにいくつかの取り決めを交わすことで、それ以上の議論紛糾を回避することになった。結果として獲得したのは、透明性の確保とNGOの関与を深めることだ。以降、検討会などに大手NGOの参加が可能となった。しかし、その結果が不十分だった1つの例として、あれだけ問題となった鉛弾中毒がいまだに継続していること、根本的な保全・管理の不足の中での地方丸投げが現在の鳥獣との軋轢を生む遠因にもなっているのではないかと思う。

ひとつ、この’改正’問題の紛糾で、環境庁の予算が増えたことは大事なことだと思う。予算が少ないことは、省庁間での立場の弱さも手伝って、彼らの保全への志向を弱めることだから。

改正が決定したのちの1999年7月、私たちはバラバラの活動を法制度確立という共通の目的に一本化して「野生生物保護法改正をめざす全国ネットワーク」を結成した。代表には鳥獣保護ネット代表の草刈さんがそのままついたが(2年後からは故本谷勲農工大教授)、事務局長選定のところでちょっとした問題があった。すでに会計は元銀行マンだった自然保護協会の田村さんが適任とされ、事務局長に同じ自然保護協会の吉田さんが推薦された。しかし、吉田さんは、同じ団体が要職を占めるのは問題があるとし、たまたまクジラつながりのもとWWF-J出身で、GPーJで初めて南極に向かう船にも乗った舟橋さんが私を推薦したことから、最初は私を会計にして、事務局長を吉田さんという案がまとまりかけた。しかし、私が会計をするのはクジラが山を登るよりも困難だと、私自身がよく知っていたので、強く抵抗、そのまま他に推薦人がいないまま、私が事務局長を拝任することになってしまった。確かに、大手保護団体以外が役につくことは良いと思ったし、クジラのためにもちょっとは役立つかな、と思ってはみたが、その後の事務局の(会計以外の)仕事のほぼ全てが私の事務所にかかってきてしまい、これが結構キツかったのは事実だ。幸い、活動方針は参加団体の会議で進められ、あまり困ったことにはならなかったし、そこで、特に多くのアイデアを出してくださったALIVEの(故)野上さんには本当に感謝している。

2021年11月15日 (月)

生物多様性国家戦略と海(始まり)

11月5日のニューズウィークは「クジラは大気から大量の炭素を「除去」していた、「森林全体に匹敵」と米研究」というタイトルで、捕鯨全盛時代前のクジラの生息が、CO2をどのようにして減少させていたかを解説した。2019年のIMFの「自然界が示す気候変動の解決法」に次いで、クジラの生息が、クジラを食料資源として利用するよりもずっと地球環境と人類にとって役に立っているという報告だ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/9d7e36598c87e0a1c9c7ac9f619dccb1f6ebc80c?page=1

https://www.imf.org/external/japanese/pubs/ft/fandd/2019/12/pdf/Chami.pdf

このような認識は世界に広まってきているが、日本では知られていないばかりか、捕鯨関係者の嘲の対象となってきたことは残念なことだ。環境省も含め、政府関係者にとってクジラは水産資源という認識が普通だ。

では、生き物を守るための条約のもとで作られる生物多様性国家戦略はどうか。

1992年にスタートした生物多様性条約を日本は1993年に批准し、最初の生物多様性国家戦略を1995年に策定した。しかしこれは生物多様性の保全の見地から言えば名ばかりの、各省庁が作成した別々の戦略を束ねただけのもので、「ホッチキス留め戦略」という悪名をつけられたものだ。海洋に関しては、水産庁の主張がそのまま掲載され、市民の声はほぼ無視されている。

2002年に取り掛かられた次の新・国家戦略は、前回の汚名を注ぐべく、屋久島自然遺産登録に辣腕をふるった小野寺浩氏が計画課長として、その元で実務を渡辺綱男氏(二人とものちに自然環境局長)が担当し、環境省の積極的な攻めで始まった。いわゆる有識者を集めて生物多様性国家戦略懇談会が開かれ、新しい戦略を検討、NGOとの意見交換が行われ、大手NGOのヒアリングも行われた。ちなみに、座長は小野勇一北九州自然史博物館館長(当時)、以下委員は朝野直人(福岡大学法学部長)、大島康行((ざい)自然環境研究センター理事長)、篠原修(東京大学工学系研究科教授)、星野進保(総合研究開発機構研究員)、鷲谷出水(東京大学農学部生命科学研究科教授)各氏(いずれも当時)。

2001年8月25日の毎日新聞は「身近な自然も保護」という見出しで、懇談会の模様を伝えている。その中で、「身近な自然が急速に消滅している国内の現状を踏まえ、国土全体を保護対象にするよう発想の転換を促し種の保存法を強化し、「身の回りの野生生物にも対象をを拡充した『野生生物保護法』の制定を提言した」と書いている。

ヒアリングでは海洋と海生生物についてのIKANの要望を、WWF-Jが代弁して発言してくれた。それに対して、参加する有識者の一人が質問したため(どなたか失念)、思いがけずその答えは私に振られ、フロアから不規則ながら発言する機会を得た。陸の動物と同じく、海の動物についても保護管理が必要ではないかという私の発言に対し、座長が「ご意見はしっかりと受け止めた」と発言されたのには、腰を抜かしそうなくらい驚いた。そして、新たな戦略の中の第3部行動計画に、本当に‘海棲哺乳類の保護と管理’が書かれていたことにはさらに驚いた。水産庁管理の資源としての扱いではない表現が登場した。しかし、水産庁の行動計画においては、残念ながら捕鯨は捕鯨推進派の主張そのままのクジラ獣害説をはじめとした問題記述があり、渡辺氏は、私たちの修正要求を受け、水産庁とのやりとりに相当苦労したようだ。

 

2021年11月 5日 (金)

太地シャチ捕獲事件(6)

 1997年2月に捕獲され、3つの水族館に収容されたシャチたちは、解放を願う人々に’TAIJI 5’と呼ばれた。

2008年に名古屋港水族館に’ブリーーディングローン’の名目で貸し出されたメスが死亡して、すでに5頭全てがこの世にいないが、少しその履歴を記してみよう。

この群は、千島列島より北方周辺から子産み・子育てのために南下し、また北に戻るトランジエント(移動型)のシャチに分類されるだろうことが、スポング博士が確認した背中のサドルパッチと呼ばれる灰色の模様と、捕獲当時に吐き戻されたミンククジラの皮でほぼ確認されている。レジデント(定住型)シャチが主に生息海域の魚類を捕食するのと異なり、移動型のシャチは、主にアザラシやイルカ、クジラなど海生哺乳類を捕食すると考えられている。

 *ちなみに、日本のシャチ研究は、2000年に入って主に民間の研究者によって始められ、現在は道東での個体識別も行われているようだが、  日本における定住型シャチの存在はまだ未解明のようである。水研センターによる北西太平洋の推定個体数は、2007年に飛躍的に激増した。 同年は、北の範囲も明らかでなく、水産庁もその信頼性について「水研センターに聞いて」と投げたくらいだが、令和2年度の’国際漁業資源の現況’でも「1992~1996 年の8~9 月の目視調査データの解析から、北緯 40 度以北で 7,512頭(CV = 0.29)、北緯 20~40 度で 745 頭(CV = 0.44)」と北限こそ示されたものの、1999年から開始された、ロシア、カムチャッカの調査など公開されているデータや、北海道の調査などは反映されていない数字である。


1。アドベンチャーワールド

  オス1 捕獲時の体長・体重 3.75m・700kg (シャチの誕生時の体長は2.1~2.5m体重180kg程度と考えられている)

     追い込みの後、母親にピッタリ寄り添い、捕獲作業時に浜で大きな鳴き声を上げていた個体。

     1997年6月14日死亡

  オス2 捕獲時の体長・体重 4.70m・1400kg

     ’キューちゃん’という名称でショーに出演していた。アイスランドからのメスシャチの’ラン’との間に子供が誕生したが、子育ての経験のない中、子供を攻撃し、子供は頭蓋骨骨折で死亡。

     2006年9月18日死亡

  メス  捕獲時の体長・体重 6.3m・5500kg (オトナ 体長5.5~9.8m 体重2600kg~9000kg )

     1997年6月17日死亡

        * 通常、成獣を水族館用に捕獲することはないが、この時、このメスは妊娠していると考えられていた。当時、内部告発でこのメスが流     産し体力を落としたため、スリングで宙吊りにして餌を流し込んでいたという未確認情報があった。スポング博士は、来日時、特にこの2頭の生存を危惧していた。

私たちは、4tトラックに黒幕を垂らし、水産庁前をスティックライトを灯してデモを行った。また、知り合いのシンガーソングライターにお願いして、シャチたちの哀歌を作ってもらって追悼ライブも行った。

 

2。太地くじらの博物館

  メス 捕獲時の体長・体重 4.55m・1400kg

  2008年9月19日死亡

  ’クー’という名称でのちに名古屋港水族館に貸し出された。

3。伊豆三津シーパラダイス

  メス 捕獲時の体長・体重 5.5m・2600kg

   2007年9月19日死亡

   アイスランドから購入したオスのシャチ’ヤマト’のお嫁さんとして期待されて購入された。

これらのシャチは、公式には’学術研究’が目的だとされている。

この’学術研究’の中身を検証するシンポジウムが、2007年11月23日、東京海洋大学で開催された。3部の構成で、第1部は「シャチの動向と整体」、2部目が「飼育下におけるシャチ研究と繁殖」で、飼育経験の長い鴨川シーワールドが「国内におけるシャチ飼育の歴史」と「飼育下におけるシャチの繁殖」を発表し、その後、まるで杖k足しのように3水族館による発表が行われた。太地は「捕獲と輸送」、アドベンチャーワールドが「飼育環境・餌・成長」、と「疾病と予防対策」、伊豆三津シーパラダイスが「繁殖生理ー性ホルモン変動を中心として」で、間に名古屋港水族館による「血液性状・体温・噴気孔内細菌そうの検討ー日本産シャチの健康管理のために」が挿入された。

 タイトルからも分かるように、動水が捕獲当初に提示した自然への理解や種の保存とは程遠い、すでに海外研究などで終わっているような飼育繁殖研究にとどまり(しかも一夜漬けっぽい内容)、同じ群に所属するシャチ間の交流観察や研究がなかったことを始め、野生シャチの生態研究とは程遠い内容であるばかりか、水族館同士さえ連携した研究をしてこなかったことが明らかになった。(後で企画した水産庁担当者が気落ちしていたという印象が残っている)。この目的の1つは将来的に学術研究目的でのシャチ捕獲の可能性だったと考えられるが、過剰な推定数を挙げてもなお、かなり無理筋だということが明らかになったシンポジウムだった。

ついでだが、終了後の懇親会で、当の推定数を作った担当者にそのことについて質問したのだが、「他で呼ばれていますので」と逃げられてしまった。

 

  ’SALTY Dreams'

   「 ガラスのような青い海 黒潮の流れに体をまかせ

  ある時は弾丸のように泳ぐ

   呼び合う声 触れ合うヒレ

   迷わないで はぐれないで

  海の青さに負けないように

  空中に身を躍らせる

  

  高い空から降ってくる 太陽の光は

  海の深さに溶け合って 七色の海の変わる

   満月の夜 波間に眠れば

   まだ見ぬ出会いを夢見て

  空の青さに負けないように

  空中に身を躍らせる

 

  嵐の夜は深く潜ろう 水の中は暖かい

  昨日生まれった幼子を ふたつのヒレで抱いて

   流れ藻に小魚は群れ

   遠くから歌が聞こえる

 海の青さに負けないように

 空中に身を躍らせる

 海の青さに負けないように

  空中に身を躍らせる」  

                          97.06.21 tateno koichi

 

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