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2021年10月25日 (月)

太地シャチ捕獲事件(3)

シャチ問題への関心としては、都内の私立大学に拠点を置く’Free Orca'というシャチ問題に特化した勉強会のような組織ができており、IKANもそのメンバーとして、太地での捕獲以前からシャチ捕獲を警戒していたことも、捕獲に対しての素早い動きを作ることができた。

IKANは、シャチの捕獲が伝えられると、捕獲時に行政と当初シャチ購入を検討していた5水族館に対して、行政が10頭のシャチを解放するよう、また水族館はシャチを購入しないよう求める要望書を送った。また、捕獲後には太地町、和歌山県、水産庁とともに、シャチを買い入れたと思われる3水族館に対して申入書を送り、電話で水族館の見解を質した。しかし、水産庁の見解は(1)に書いたとおり、1992年に専門家が認めていた(事実ではないことを後に確認)というもので、太地くじらの博物館の答えとして「芸を覚えさせるのも学術研究の一部であり、ショーは研究成果を披露するためのもの」という捕獲の目的そのままの答えがかえってきたし、伊豆三津シーパラダイスは回答なし、アドベンチャーワールドに至っては、シャチを導入したことさえ認めようとしなかった。

IKANは違反イルカ事件の時に連携したNGOとともに、行政と水族館への抗議ファックス行動を呼びかけた(当時は、まだファックスが主流だった)。シャチの捕獲は許可の過程の不透明さも手伝い、メディアも大々的に報道したこともあり、予想以上の成功を収めることができた。聞いたところでは、ある水族館では1日に1300通ものファックスが届いたというほどの勢いで、いまだに水産庁の幹部によっては会うと、挨拶がわりにこのことで苦情を言うものまであるくらいだ。

抗議行動が大きくなった1つの理由として、海外からの抗議の声が挙げられる。違反イルカ猟事件では、海外の連絡先が不発だったのとは異なり、今回は、水族館に長期間囚われているシャチたちの解放運動をしてきた海外の人たちが積極的に動いてくれた。その中でも、鯨類研究者のポール・スポング博士の貢献が大きい。

スポング博士とは面識があった。1987年にエコロジーの季刊誌「オイコス」を発刊する際に、私は、初めて成田から海外に渡航した。反対闘争に関わる知人もいたため、それまで成田を使うことを拒否して海外渡航経験はなかったのだ。行先はカナダ。オイコスの編集に協力してくれたMさんの知り合いで、70年代からバンクーバー島と本当の間の海峡に浮かぶハンソン島という無人島に移住し、島の前の海峡を行き来するシャチの研究に携わっているスポング博士のインタビューをするためだ。Mさんから彼については事前に聞いており、かつてバンクーバー水族館に所属していた時にシャチと触れ合い、彼らを人工的な施設に閉じ込めることの間違いを知り、鯨類学者としての立場ながら、68年にアメリカ西海岸で捕獲され、シーワールドにいる’コーキー’の解放運動を担ってきた。Mさんの希望で、発刊2号ではクジラ問題を特集する予定で、スポング博士の立ち位置はとても面白いと考えたのだ。

そのご縁があって、Mさんからシャチ捕獲に立ち会った話を聞いたスポング博士が連絡をとってきた。たまたま、友人の寄付でコンピューターを導入し、初めてインターネットを使うようになったところで、シャチ捕獲とその連絡などによって、私は、インターネットの使い方(主にメールでのやりとり)と使い慣れない英語の勉強をせざるを得なくなった。最初はメール1本に半日以上もかかった。しかし、この便利な機械のおかげで、国内だけでなく海外の情報も支援も飛躍的に受けられるようになったのだ。海外におけるシャチ捕獲への怒りは凄まじく、大きな抗議集会なども組織され、毎日その抗議行動は大きくなるばかりだった。

海外では、鯨類保護の機運が高まり、シャチの生態研究も進むと、76年には北米西海岸でのシャチ捕獲がストップし、次に捕獲地として使われたアイスランドも1989年に捕獲をやめた。またハリウッド映画の「フリーウィリー」が大ヒットしたこともあって、人々は、シャチの自由な暮らしを求め、飼育施設からの解放へと向かっていたのだ。

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