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2021年10月29日 (金)

太地シャチ捕獲事件(5)

「海生哺乳類の保護を求める要望書」

シャチ捕獲に対する私たちの行動でもう1つ挙げておきたいのは、環境庁(当時)への働きかけである。

ポール・スポング博士日本滞在中に、IKANは博士を伴って賛同する17団体の署名を環境庁に届け、K自然計画課長と面談を果たした。ついでになるが、彼は環境庁内の実力派で、のちに初めての環境庁生え抜きの局長となる人だ。(それまでは農水出身者が局長職を担っていた)

周知の事実とは思うが、繁殖率の低い大型哺乳類であるクジラ類は、海洋の環境悪化を考えても保全・管理の必要性がはっきりしているというのに、いまだに「資源」としての観点でしか管理されておらず水産庁の管理下にある。したがって、水産庁管理のもとでの捕獲禁止措置は資源対象として適切かどうかであり、対象種の保全の一部は果たされているのかもしれないが、十分な調査はなされず、もちろん回復計画などはのぞむべくもない。

私たちは言葉を尽くしてシャチ捕獲の現状と日本におけるシャチの状態を話したもちろん、スポング博士も研究者としての立場から、シャチの生態や人工的な施設に入れることの問題を話してくれた。しかし、私たちの話に耳を傾けたのち、彼の言ったことは「水産庁の管理下の方が、予算も人材も乏しい環境庁よりも適切に管理できる」というがっかりするようなもので、このスタンスは、「庁」から「省」に昇格した現在も変わっていない。

この時から、海生哺乳類の保護へ向けてのIKANの活動に、対環境庁(のち環境省)への働きかけが加わることになる。

要望書が出されてから4年後2001年3月の農水委員会。ここで共産党の岩佐恵美議員のジュゴン保護に関する質問に対して当時の農水大臣であった谷津義男氏が種の保存法への記載を認めた。2002年の生物多様性の新国家戦略(第二次戦略)4の具体的施策に「海棲哺乳類の保護と管理」の一項が入り、また同年の鳥獣保護法改正では、明治期に作られたカタカナ書きの法文を平仮名に変更するにあたり、鳥獣の定義として野生鳥類及び哺乳類全てが該当することになった。ただし、法文の八十条において、他法令で適切に管理が行われている海生哺乳類は対象としない旨の但し書きがあり、ジュゴンは環境省管理となったが、クジラ類は水産庁に取り残された。他の法令は漁業法や水産資源保護法で、もともと目的も異なるものだし、百歩譲ってその法律でよしとしても、その元での管理が適切に行われているかと言えば、甚だ心許ない。

(ちなみに「水産資源保護法」は、1952年に沿岸の海洋資源の乱獲を危惧したアメリカによって指導されてできたものだ。だから、水産庁が徹底して嫌っている’保護’という言葉が唯一使われているところは面白いが)

私自身、1999年に改変された鳥獣保護法に伴い、組織された「野生生物保護法を制定する全国ネットワーク」の事務局長として、野生生物保護の法律制定を目指して活動を開始し、その中に、海生哺乳類の保護管理を入れ込んだ。保護法は、超党派の議員立法として薄められはしたが、「生物多様性基本法」として民主党政権下で2008年に成立し、成立を公表する記者会見で、賛同する議員を代表して谷津義男議員はこの法律が「微生物からクジラ」までを含む包括的なものであると宣言した。
環境省は、翌年に「海洋生物多様性戦略」を策定し、2010年の名古屋で開催されたCOP10において、海生生物のレッドリストを作成すると宣言した。

2021年10月28日 (木)

太地シャチ捕獲事件(4)

2月7日、太地沖を通過し、追い込まれたシャチの10頭の群れのうち、5頭は3つの水族館が購入した。総額1億2000万円だったとされているが、シャチの相場から言えば安い買い物だったかもしれない。シャチは人気者なのだ。抗議に参加した人も、また水族館でシャチを見ることに期待した人も、「学術目的」で捕獲されたこのシャチたちが集客目的でショーデビューするだろうことを疑っていなかったはずだ。

それに対して、日本動物園水族館協会は、2月28日付で「採捕(生け捕り)されたシャチについてという水族館の見解を発表した。それによると、シャチ捕獲は「水族館の社会的役割の1つの柱である学術研究のため採捕され、飼育が続けられるもの」だとし、「飼育・展示することにより、利用者一般に海洋生物の習性・生態を辻て自然の理解を深め」「海洋生物の種の保存を含め、生物学の進展に役立つための学術研究を行うもの」とした。

動水のこのふざけた見解を感情的な反発ではなく、科学的な問題として指摘する必要があった。そこで、早速、スポング博士に連絡を取り、来日を打診した。彼自身、シャチの飼育状態を含めた現場の状況の確認を望んでいたため、3月17日に急遽来日が決定した。

それからは本当に目の回るような忙しさだった。幸いなことに、JAVAのTさんが全面的な協力を申し出てくれ、和歌山県の支部のメンバーと連絡を取り合って、一行のスムーズな移動とメディアとのコンタクトもうまく進めてくれた。

彼を案内してまず太地に向かい、関係者との面会やシャチの様子を観察することにした。もちろん、水族館側は拒否し、導入されたメスのシャチを観察することも拒否されたため、仕方なく、双眼鏡で観察するにとどめた。次に訪れたアドベンチャーワールドでは担当者不在を理由に話し合いを拒否。また、和歌山県庁で捕獲されたシャチに関する情報公開を求め、記者会見を行った。このような水族館の対応はメディアの反発を生み、メディアによってスポング博士の来日と彼の見解が広く紹介される結果となった。

シアトルで行われた大規模な抗議集会に呼応して、IKANは渋谷駅頭と銀座のど真ん中でシャチ捕獲反対と行動呼びかけのアピールを行なった。アニマルライツセンターの貸してくれた4トントラックにシャチのイラストを描き、捕獲時の赤ちゃんシャチの鳴き声を盛大に流した。また、シャチ捕獲抗議で送られてきた国内外のファックスをコピーして展示し、シャチ保護への関心の高さも訴えた。シャチ解放に向け、私たちはできることはなんでもするつもりだった。

Img_1546 (太地シャチレポートから)

 

2021年10月25日 (月)

太地シャチ捕獲事件(3)

シャチ問題への関心としては、都内の私立大学に拠点を置く’Free Orca'というシャチ問題に特化した勉強会のような組織ができており、IKANもそのメンバーとして、太地での捕獲以前からシャチ捕獲を警戒していたことも、捕獲に対しての素早い動きを作ることができた。

IKANは、シャチの捕獲が伝えられると、捕獲時に行政と当初シャチ購入を検討していた5水族館に対して、行政が10頭のシャチを解放するよう、また水族館はシャチを購入しないよう求める要望書を送った。また、捕獲後には太地町、和歌山県、水産庁とともに、シャチを買い入れたと思われる3水族館に対して申入書を送り、電話で水族館の見解を質した。しかし、水産庁の見解は(1)に書いたとおり、1992年に専門家が認めていた(事実ではないことを後に確認)というもので、太地くじらの博物館の答えとして「芸を覚えさせるのも学術研究の一部であり、ショーは研究成果を披露するためのもの」という捕獲の目的そのままの答えがかえってきたし、伊豆三津シーパラダイスは回答なし、アドベンチャーワールドに至っては、シャチを導入したことさえ認めようとしなかった。

IKANは違反イルカ事件の時に連携したNGOとともに、行政と水族館への抗議ファックス行動を呼びかけた(当時は、まだファックスが主流だった)。シャチの捕獲は許可の過程の不透明さも手伝い、メディアも大々的に報道したこともあり、予想以上の成功を収めることができた。聞いたところでは、ある水族館では1日に1300通ものファックスが届いたというほどの勢いで、いまだに水産庁の幹部によっては会うと、挨拶がわりにこのことで苦情を言うものまであるくらいだ。

抗議行動が大きくなった1つの理由として、海外からの抗議の声が挙げられる。違反イルカ猟事件では、海外の連絡先が不発だったのとは異なり、今回は、水族館に長期間囚われているシャチたちの解放運動をしてきた海外の人たちが積極的に動いてくれた。その中でも、鯨類研究者のポール・スポング博士の貢献が大きい。

スポング博士とは面識があった。1987年にエコロジーの季刊誌「オイコス」を発刊する際に、私は、初めて成田から海外に渡航した。反対闘争に関わる知人もいたため、それまで成田を使うことを拒否して海外渡航経験はなかったのだ。行先はカナダ。オイコスの編集に協力してくれたMさんの知り合いで、70年代からバンクーバー島と本当の間の海峡に浮かぶハンソン島という無人島に移住し、島の前の海峡を行き来するシャチの研究に携わっているスポング博士のインタビューをするためだ。Mさんから彼については事前に聞いており、かつてバンクーバー水族館に所属していた時にシャチと触れ合い、彼らを人工的な施設に閉じ込めることの間違いを知り、鯨類学者としての立場ながら、68年にアメリカ西海岸で捕獲され、シーワールドにいる’コーキー’の解放運動を担ってきた。Mさんの希望で、発刊2号ではクジラ問題を特集する予定で、スポング博士の立ち位置はとても面白いと考えたのだ。

そのご縁があって、Mさんからシャチ捕獲に立ち会った話を聞いたスポング博士が連絡をとってきた。たまたま、友人の寄付でコンピューターを導入し、初めてインターネットを使うようになったところで、シャチ捕獲とその連絡などによって、私は、インターネットの使い方(主にメールでのやりとり)と使い慣れない英語の勉強をせざるを得なくなった。最初はメール1本に半日以上もかかった。しかし、この便利な機械のおかげで、国内だけでなく海外の情報も支援も飛躍的に受けられるようになったのだ。海外におけるシャチ捕獲への怒りは凄まじく、大きな抗議集会なども組織され、毎日その抗議行動は大きくなるばかりだった。

海外では、鯨類保護の機運が高まり、シャチの生態研究も進むと、76年には北米西海岸でのシャチ捕獲がストップし、次に捕獲地として使われたアイスランドも1989年に捕獲をやめた。またハリウッド映画の「フリーウィリー」が大ヒットしたこともあって、人々は、シャチの自由な暮らしを求め、飼育施設からの解放へと向かっていたのだ。

2021年10月21日 (木)

太地シャチ捕獲事件(2)

2月8日に現地入りしたメンバーは、湾に隣接する入江に囲い込まれた10頭のシャチの様子と、水族館の話し合いの様子を見聞きしたのち、いったん引き上げてきた。水族館の飼育員たちはどのシャチを取るかで揉めていたようだ。どこも、まだ幼い飼育しやすい幼い個体を選びたがる。シャチの群れは、基本的に母系家族なので、水族館の要望に応えられるような(若い個体ばかりの)構成になってはいないはずだ。その場で「妊娠しているメスがいる」という話が出ていたことも伝えられた。

いつ捕獲が始まるのかわからない状況の中、IKANの’親’団体のHさんが9日に現地に行くということで、ご一緒させてもらった。国内線で白浜空港まで行き、そこからは各駅停車で太地に行くという計画で、羽田で挨拶すると、Hさんはまだビデオの件を引きずっていたようで、一緒に行くのは迷惑と言う態度を崩さなかった。それはそれで仕方ないことだ。

その日は太地の民宿で1泊し、夜間にシャチの様子を見に行った。仕切り網で一か所に囲われたシャチたちは1箇所にかたまり、意外なほど静かに水面に浮かんでいた。ライトが赤々とその様子を照らし、見回りの船が行き来しているようだ。せっかくの儲けの種を、手放すようなはめにならないように見張っているわけだ。明らかに親子と思われるメスのシャチとぴったりとそのメスに寄り添う小さな子供の姿が確認できた。

翌朝6時ごろ、同じ宿に宿泊していた関西のNGOが捕獲が始まったようだと知らせてくれたので、大急ぎで身支度をして宿を飛び出した.途中、畠尻湾手前のトンネルでトラックにすれ違い、シャチを運んでいるところを確認したが、これは、太地町立くじらの博物館に搬入された2頭のメスの子供だということが後でわかった。アイスランドから来たオスシャチのお嫁さんとして伊豆三戸シーパラダイスに搬入されたアスカと太地くじらの博物館で飼育され、のちに名古屋港水族館にブリーディングローン名目で運ばれたクーだ。

浜辺には、焚き火が焚かれており、大勢の人が見守っていた。地元の人たちや観光客とともに、多分メディアや保護の側の人たちがいて、ビデオや写真撮影をしていた。浅瀬には体を半分水面から出た状態で1頭の大きなメスがもがいていた。尾鰭の後ろ側の白に鮮やかな血の色が滲んでいた。浜には、小さな子供(赤ん坊)のシャチが引き上げられ、濡れ毛布をかけられていた。大きな声で泣き続ける赤ん坊シャチの声は、哺乳類一般の赤ん坊がお乳を求めて泣き叫ぶ声そのもので、心臓を鷲掴みされたような気分になったが、何をすることもできず、ただ呆然とつったっているだけの自分が本当に情けなかった。

少し離れたところでそれよりもう少し大きめの子供をズックでできた担架に引き上げる作業が行われ、その向こうの仕切り網の中に残りの5頭が入れられていた。1頭の大きなメス、多分浜に上げられている赤ん坊シャチの母親だと思われるシャチが、仕切り網に体を押しつけ、声に呼応してこちら側に来ようとしているように見えた。見物人の中から、多分漁師の知り合いと見える女性が、「こわくないの〜?」と声をかけた。すると一人が作業から離れ、5頭のいる仕切り網に向かい、何とシャチの背に登った。「イルカに乗った少年!!!」漁師はご機嫌だったがこちらは吐きそうになった。大型の哺乳類の多くだけでなく、小さな鳥でもネズミや昆虫でさえも、身が危ういとなれば必死で抵抗するのに、シャチは静かなまま動かないのが何とも焦ったい。

担架に乗せられたオスの子供はクレーンで吊り上げられ、トラックに乗せられて連れて行かれた。これは、初め行方はわからなかったものの、後で支援者がアドベンチャーワールドで発見し、後々ショーにも使われたオスの子供だ。浜で泣き叫んでいた赤ん坊と浅瀬でもがいていた大人メスは、2隻の船に宙吊りされて、太地湾に運ばれて行った。この2頭も同じく白浜のアドベンチャーワールドに運ばれたことを後で知った。

その後、仕切り網が解かれるが、残された5頭は逃げようとせず、船で追い払われた。その間3時間ほど。途中からひどく具合が悪くなった私は、民宿から移ったホテルで、情けないことにとうとう倒れてしまった。

 

2021年10月13日 (水)

太地シャチ捕獲事件(1)

 11月23日に違反イルカ事件の緊急集会が東京で行われ、イルカ捕獲と水族館飼育についての多様な意見交換が行われた。12月に水産庁との意見交換も行われ、一段落して新しい年を迎えたのも束の間、翌年2月7日、事務所に今度は大阪からシャチが捕獲されたという電話やファックスが相次いで入って来た。テレビで映像が流れたらしく10頭のシャチが追い込まれたという。

シャチは、水産庁のRDBと呼ばれる「日本の希少な水性野生動物に関する基礎資料」では希少種に分類されている。また、毎年更新されている水産庁管轄の、国立研究開発法人水産研究・教育機構の「国際漁業資源の現況」では「北東太平洋では複数系群の存在が知られているが(Olesiuket al. 2005)、北西太平洋における本種系群の情報は全くない。今後、本海域の系群構造を明らかにして、系群単位の資源量推定とその動向を確認する必要がある。」と記述され、管理方法として「捕獲は禁止されている」と端的に記されている。

1997年2月に追い込まれ、捕獲された10頭の群れについて、IKANが作成した「太地シャチレポート」で、水産庁は「今回の捕獲は学術研究の目的で実施されたもの。6年前の1991年に国内の5水族館から研究計画書を添えた捕獲許可申請が提出され、その内容を水産庁内の専門家きか関係者によって審査・検討した結果、年間5頭まで捕獲を許可した。研究会用はシャチの生理・生態・習性を調べ、究極的には繁殖を目的とするもの」と説明。しかし、のちにあきらかになっことでは、1991年当時、小型鯨類に関する水産庁内の専門家機関の最高責任者は、シャチ捕獲について許可を出していなかった(捕獲許可申請があったことさえ知らなかった)。また6年前に5水族館から提出されたはずの「研究計画書」は、関係者ですら存在を知らず、水産庁も公表しなかったことから、実際は存在しないか、存在したとしても計画書の形を成していないズサンなものであったと思われる」(太地シャチレポートからの抜粋)

2月10日早朝、シャチは畠尻湾に追い立てられ、水族館の飼育員による選別と捕獲が始まった。

2021年10月 9日 (土)

団体名の由来は

 前述のように、私はもともとメンバーとして団体に入り、活動を始めたわけではなく、同僚の一人が立ち上げに参加し、そのことがきっかけで仕事場を連絡事務所に貸し、そのままずるずると活動に参加することになったのだ。そのため、この長々しい名前の由来について知ったのは、数年経ってからだ。

当初このネットワークには参加するメンバー団体があり(参加している団体の名前は知らされていた)、それぞれにイルカに関わる活動をしている団体だったが、活動内容は、立ち上げのきっかけとなった保護団体のように、水産庁と話し合うことさえ妥協と考えるようなところから、海外団体の支部で、鯨類の保全に関わるセミナーや教育活動をしているところ、映像で海と鯨類について伝えようとするもの、イルカと泳ぐことが鯨類問題の緒と考え、その方面で活動するもの、イルカ情報を発信するところなど、日本のイルカ保全を、という一応の方針は掲げていても、スタンスはかなり異なる。そして、ネットワーク立ち上げの時に「これまで活動してきた団体にマイナスになるような、セミナー活動やツーリズムは行わないで、イルカ保護のための実戦に限るという一札を入れられていたようだ。そのため、’アクション’という言葉が加えられたという。まあ、汚れ仕事専門に徹してほしいといったところか。今更名前を変更するのも面倒だが、名前倒れも甚だしい事は言われなくてもよくわかっている。

メンバーの中にも、それぞれの団体に所属していた人たちが集まっており、考え方や関わり方もそれぞれ異なっていたらしいが、それも後で知ったことで、私自身は、最初メンバーという自覚もなかったくせに、どうすれば解決できるのかということに専心して突き進んでいたので、私が動いたり提案することで内部とも外部団体とも軋みを作り出していたらしい。

特に、当時の代表は、元々がストリクトな動物保護を目指す団体出身だったこともあり、ビデオ問題で私がそこと溝ができたことがそのまま代表との溝にもなり、方針の違いが生まれて、団体の決裂危機状態まで進むことになった。私個人のそれまでの多少の経験も手伝って、若者のやる危ういことを黙って見ていられなかったという老婆心も仇となったと思うが。

2021年10月 8日 (金)

イルカ猟撮影ビデオ事件

水産庁への申し入れの強力な武器になったのは、水族館用捕獲の行われた21日と、捕殺が行われた22日に撮影されたビデオだ。特に、川口さんが撮影してくれた港から坂を上がったところに位置する解体小屋でのオキゴンドウ の激しい抵抗の様子は、見るものの気持ちを直揺さぶった。

これら2本のビデオは、それぞれの撮影者から、IKANに、活動のために委託された。そのビデオを、編集のプロがいるので送ってほしいという、IKAN立ち上げの母体となった団体の責任者から電話があったのは、オキゴンドウ の解放も終わって数日経ってからだったと思う。確かに2本の長いビデオを見せるより、綺麗に編集されている方がいいと考えたメンバーは、その2本を指定された京都の編集者と思しき人に送った。しかし、先方からは2週間ほど経っても何の音沙汰もないので、どうなっているかという問い合わせをメンバーの一人がした。その結果、ビデオがさらに編集のためとして、サンフランシスコに送られたということがわかった。ダビングしたものが少しあったので、実際の活動には支障がないため、その件はそれ以上追求しなかった。

ところが数日経って川口さんから電話が私にかかってきた。活動資金が入るかもしれないというのである。アメリカから、契約書のようなものがファックスされてきて、すぐさまサインが欲しいといわれたという。ただし、内容的に問題があるかもしれないので確認してくれという。

問題はあった。

そのドキュメンタリーの制作会社は、フィルムの使用量を提示するとともに、条件を言ってきていた。それによると、メディアなど商業的な利用には2年間使うなという。それだけではなく、なぜか、活動のためにもフィルムの利用ができないと示されていたのだ。何のために撮影されたのか、これでは全く意味がない。しかも契約書は、それぞれ二人の撮影者との個別契約になっており、代理人として記されていたのは、アメリカの活動家の名前で、フィルムを託されたIKANの名前はどこにもなかった。

さっそく、海外の活動事情を知っている知人に相談すると、幸いその知り合いがドキュメンタリー制作者を個人的に知っていたのがわかった。早速事情を話して、その制作会社の人に問い合わせをしてもらった。

結果、手違いを先方が認め、代理人としてIKANが記されただけでなく、商業利用以外の利用については何の条件もつけられなかった。しかも、フィルム使用料は、最初に提示された金額の2倍になっていたのだ。

間に入ってビデオを送るように指示してきたさる団体の責任者に事情を説明したものの、彼女がいうには、その海外活動家は、IKANのために骨を折ってくれたの一辺倒で、なぜ送ったのかの説明もなく、全く事情を理解してくれようとはしなかった。しかし、こちらとしても納得が行かず、結局それ以来、私とその団体との亀裂ができて残念な結果となった。

 

 

2021年10月 7日 (木)

1996年のイルカ猟事件の反省など

1996年にIKANが遭遇したイルカ違反捕獲事件は、たくさんの課題を残した。1つは、違反に問題の焦点が当てられたため、イルカを捕獲することに関する議論が十分できなかったこと。違反を正すにしても、罰則がないなかで、水産庁と県、漁業者で内輪での解決が行われたー水産庁の強い意向で解放が行われた一方で、漁協の違反行為(遠回しの説明から推測するとオキゴンドウ の枠を持っていた太地の枠をまわしたもよう)と捕獲数の事実隠蔽についてはIKANの再々の要望にもかかわらず、明らかにできなかった。後の話だが、1999年に行われたイルカ猟では、無理だとしていた県の立ち会いがあったこと、捕獲枠外のイルカの解放が自主的に行われたらしいことは一応評価するが、屠殺方法の残酷さについては漁師たちに自覚は全くなく、映像がIWCで公開されたことにより、水産庁の指導でこっそりと変更されたものの、水産庁が採用したデンマークのフェロー諸島で行われているイルカ捕獲の方法自体も問題が指摘されているものだ。

捕獲枠が持続的かどうかという議論も必要なものだった。当時のIKANメンバーは鯨類の専門家でないばかりか、生物学的にも全く素人だった。日本の鯨類学者として国際的な評価を得ている粕谷俊雄博士に無理を言って話を聞きに行ったのは、1997年シャチ捕獲事件の後だったが、それでみんなの理解は飛躍的に進んだ。

富戸の持っている枠(バンドウイルカ75、スジイルカ 70頭、マダラ/アラリイルカ455頭)であるが、水産庁による「日本の希少な野生水生動物」をみると、スジイルカ の捕獲が年2万頭を超える年もあった。80年代に入ると捕獲数が激減、対象がマダライルカ(アラリイルカ)にに移ったようだが、せいぜい2〜3000頭の捕獲数であり、それも90年代には難しくなった。そもそも母系の群れで移動している繁殖率の低いイルカを、一網打尽にする追い込みという方法は、イルカの個体群消滅に繋がる可能性は高く、種の存続に適切かどうか、素人にもわかることではないだろうか。バンドウイルカは、96年の捕獲時にも漁師が「バンドウはまずい」と死んだ個体を蹴飛ばしたという報告があるように、もともと食用での捕獲ではなく、生け捕りが目的であったようだ。水産庁の提示する捕獲枠の問題がここに現れてているように思える。

捕獲数激減により富戸、川奈、安良里の3ヶ所あった捕獲地が最終的には富戸1箇所になったことでも、出地方での追い込み漁は決して持続的ではなかったことが明らかだ。


 

 

*写真 オキゴンドウ のと殺(この写真をもとに水産庁が補殺数を5頭とした)

Img_1537 

2021年10月 1日 (金)

6。捕獲されたイルカ は何頭だったのか?

正月も明けて間もない頃、事務所に1本の電話がかかってきた。内容は、前の年のイルカ捕獲で、枠のないオキゴンドウ 捕獲数5頭とされてきたところが、実際は22頭だったというものだ。漁協内部からの告発で、早速IKANメンバーが昨年コンタクトのあった静岡新聞記者に連絡を取った。98年1月9日の静新は「報告5頭、実は20頭余」という見出しで、組合員の石井泉氏が、事業報告書に書かれたイルカ売買の記録が報告と異なることを指摘した。県はオキゴンドウ は5頭であったという姿勢を崩さず、、当時の富戸支所長は「オキゴンドウ 5頭は市場に出さず、地元で消費した」という説明をしている。

ところが、元理事の一人が、県外に販売したイルカ肉の伝票を公表し、石井氏の主張であるオキゴンドウ 22頭が660万円で販売されたことが証明された。1月30日、静岡新聞が続報を出している(写真)。さらには元理事の発言として「納品先は和歌山県太地町の水産加工業者」と販売咲きも明らかにしているのだ。彼は「悪いことは悪いこととして認めるべき。オキゴンドウ の売却は漁協役員らも知っているはず。売却代金は伊藤市漁協の会計に入っている」とも証言している。この数字が正しいなら、オキゴンドウ の22頭だけでなく、バンドウイルカの捕獲数も100頭を超えることになる。

IKANは真相を究明すること、また違反操業に対して罰則を含む厳しい規制を行うこと、違反操業を行わせないため第三者機関による監視を行うこなどについての国内自然保護団体頭22団体による要望書を作成し、水産庁や静岡県に提出した。しかし、伊東市漁協組合長も、富戸支所長もこの証言を否定し、県はこの告発が漁協内部の役員選挙を控えた紛争と主張しており、改めて調査するとした水産庁も結果を公表しなかった。また、漁協内部では仲間内を告発するような行為は許せないと、青年部を中心に石井氏の吊し上げが行われ、内部の浄化は望めなかった。

 

 





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