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2019年1月15日 (火)

外務省のいうクジラの「保全」て?

ニューヨークタイムズが昨年末社説で、日本のIWC脱退を批判した記事に対して、外務省が反論したことが記事化されている。

こちらはそれを報じた読売新聞。

https://www.yomiuri.co.jp/politics/20190112-OYT1T50026.html?from=
  大菅岳史外務報道官の署名で、捕鯨は日本固有の文化であり、日本は国際法を順守し、
   「クジラの保全に取り組 んでいる」と主張している。
(中略)
 
   日本政府は同紙の社説が「重大な事実に触れていない」と反論。日本の捕鯨が、
   IWCで科学的に確立された方式に基づく捕獲枠の範囲内であり、排他的経済
   水域(EEZ)内に限ることなどを強調し、「日本だけを標的にするのは不公平だ」と主張した。

こちらは産経新聞。
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190112-00000517-san-n_ame
 【ニューヨーク=上塚真由】米紙ニューヨーク・タイムズが社説で日本の国際捕鯨委員会(IWC)脱退を批判したことを受け、外務省は11日、「日本はクジラの保護に献身的だ」と反論する寄稿を同紙電子版に掲載した。

 捕鯨が「日本’固有’の文化」と簡単に言っちゃっていることについてのツッコミは別の機会にするとして、
 この人は、「保全(あるいは保護)」」という言葉をどういうふうに解釈しているのだろう?
実際に資源の利用に関わっている水産庁ではないから、勝手なことを言っているだけか?それとも、水産庁(あるいは議員)にそう言えと言われたのか?

保全に取り組んでいない理由ならそれこそごまんとあげられるのだが。

1)2003年のベルリン第55回IWC。保全委員会(官製訳では保護委員会)の設立決議猛反対。南極でシロナガスクジラを取りまくって絶滅の淵に追いやった国々が保護委員会なんておこがましいそうだ。(その仕上げをしたのは、捕鯨から手を引いた国々から捕獲枠付きで船を買って取りまくった日本ではなかったか?)
日本は今だに’保護’委員会をボイコットしている(あ、過去だからし続けた、だ)。
2)南大西洋サンクチュアリに(お友達国を誘って)反対票を投じた。
3)絶滅寸前のバキータの保全決議は棄権。
4)国内では、希少個体群であると指摘されているJ-stock(日本海個体群)の混獲が懸念されているオホーツク海域での捕鯨を承認している。
5)定置網混獲の回避措置が全く取られない(生物多様性国家戦略のパブコメでは、混獲防止は流し網についてです、と返答)毎年、100〜150頭のミンククジラが生きた状態でかかり、死んで肉は商業流通している。2010年の日本鯨類研究所通信によると、特に日本海側やオホーツクではJ-stockの混獲が著しい。
定置網混獲は、ミンククジラだけではない、はるばる、小笠原や沖縄に繁殖にやってくるザトウクジラも毎年何頭も
定置網にかかり、販売されているし、セミクジラがそういう憂き目にあうこともある(2016年1頭混獲→販売)。
http://www.jfa.maff.go.jp/j/whale/w_document/attach/pdf/index-10.pdf
006〜2007年に混獲されたコククジラに関してのみ、回避措置のガイドラインが作られたが、それのみ。
6)2017年に公表された海洋生物レッドデータで、水産庁は全てレッドリスト対象外とし、専門家からも批判されている。「保全」を尽くすのであれば、まずきちんとした調査を実施し、その評価を客観的で透明なものとして発表すべきである。
(あ!もしかしたら、せっかくの’捕鯨対策費’51億円ををこれを含む保全対策に使ったら、いくらか外務省の役人の言葉が空々しくなくなるかもしれない)

7)だいたい、水産庁は、1972年の環境庁(当時)との密約がすでにありません、と言っておきながら、決して環境省の管轄に譲ろうという姿勢を見せない。資源利用と産業の振興が目的の水産庁ではなく、「保全」対策を進めるなら、環境省の関与は重要だ(最も環境省は、予算も人もない状態ではやりたがらないだろうが)。

忘れてはいけない!
8)イワシクジラ「海からの持ち込み」。商取引禁止のイワシクジラを2000年からこれまで1300頭も捕獲し、肉を販売。
ワシントン条約の常設委員会で違反の是正勧告も、まだ肉が市場に出回っている。
9)昨年に危急種にランクが下がったものの、希少なナガスクジラをアイスランドから輸入し続けている。


今懸念しているのは、IWC脱退してますます「保全」問題から一般が遠ざかり、クジラがいつまでたっても(もしかしていなくなっても)水産資源としての原理・原則から外されず、当たり前のように’切り身’のクジラしか想像しない状態が続くことだ。

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