くじらの海構想
しばらく間が空いてしまったが、12月4日から訪問した太地で、三軒一高町長と意見交換したくじらの海構想について報告する(もし、この中で、彼の発言に書き間違いがあればそれは私の責任である)。
くじらの海構想については、これまでも何回か新聞などで報道されてきた。その中で見えたことでも私たちが元々反対する鯨類飼育・繁殖という問題性のみならず、いろいろと矛盾をはらんだ今後の展開が懸念される計画だと感じていた。9月にAFPの電話取材を受けたときから、実際にこの目で現場を見、計画者の考えを聞きたいと思ってきたが、それがやっと12月になって実現したというわけだ。
その報告をする前に、まず時間を割いてくださって、丁寧に説明し、質問に答えてくださった太地町の三軒一高町長に感謝を申し上げたい。
<合併問題と町の自立>
三軒町長の説明は、9年前に持ち上がった太地町の合併問題から始まった。
20年近く前に始まった全国町村合併の進行の中、人口3,500人弱の小さな町である太地町も、隣接する那智勝浦との合併問題が持ち上がっており、当時の町長は合併支持を示していた。しかし、町長によって実施されたアンケートでは、合併反対が賛成を上回り、町長は辞職を余儀なくされた。小さな町が比較的大きな町に統合されるのは、合併ではなく吸収だと反対する声に押され、三軒町長が町長選に出たときは、選挙の10日前だったと言う。
<鯨類資源の利用を柱に町づくり>
小さな町の自立は、太地のみならず多くの地方自治体においても容易ではなく、よほどのリーダーシップや特色がなければうまくいかない、悩みがつきないものだと思う。
当選した三軒町長は、合併のかわりに傾きかけた町の財政を立て直す方策として歳費を削減(自分も含む議員の歳費の3割カットを実現)し、30年かけての町づくりの目標をたてた。それまでのくじら浜公園を中心としたクジラを観光の目玉とする方向から大きく踏み出し、鯨類をあらゆる面で資源利用し、推進することを選択したのだ。
3億3千万円かけた鯨体処理場の建設(2008年)や学校給食への鯨肉の導入とその加工場建設、全国への給食の普及。「学術交流」と称してのくじらの博物館のイルカの海外水族館への輸出。赤字漁協の解散と新たな漁協の設立とその動きは慌ただしい。
一方で、捕鯨を守る全国自治体連合協議会の会長として鯨フォーラムを運営(2006年フォーラム主催)、IWCに自らを含めて複数の町職員の参加など、その後の活躍は業界紙等でたどることができる。
元々、彼は捕鯨関係者ではなく、父親の代からの真珠養殖を生業とする漁業者だった。しかし、すでに盛りを過ぎ赤字事業となった真珠養殖を捨て、それまで太地で連綿と続いてきた捕鯨を中心に、「古式捕鯨発祥の地」としての太地を強く前面に据えた。これは捕鯨推進コミュニティにとってもずいぶんと都合が良かったことだろう。よくも悪くも、彼の名前は日本の沿岸捕鯨推進の旗手として、たびたび脚光をあびることになる。地元出身議員の力添えもあって、中央との太いパイプもできた。
太地を語る中で、しかし、繰り返し彼が強調したのは、「環境と衛生に配慮し、弱者に優しい町づくり」だ。高齢者の割合が35.9%という高い比率の中で、高齢者や障害者への地域ネットワークサービスや低床循環バスの運行、環境に配慮した公衆トイレの整備など、高齢者の人気は高いと聞く。
<森浦湾のくじらの海構想ー世界に誇るクジラ研究センター>
今回の構想の中心は、「世界に誇れるくじら研究施設の創設」だと彼はいう。捕鯨も反捕鯨もない、世界中の研究者を招聘し、世界に誇るクジラ研究のセンターを作る、というのが彼の夢だ。また、そうした研究を支援し、貢献するため湾に仕切りを設けてたくさんの鯨類を飼育し、繁殖を行う、ともいう。すでに、いくつかの大学から問い合わせもあるという。
(2001年のアエラの記事、「定置網にかかったミンククジラを救出して、養殖する。設備として50~60億の建設費がかかる」について聞いてみたところ、あれは今回の計画とは違うといわれた)
世界的には、野外研究が主流となっていて、鯨類飼育に関しては否定的な研究者も多いのでは?という質問には、今すぐにとは言えないが、いずれは(自分自身としては)仕切り網も解いて、出て行くものは出て行っても良い環境にしたいという。この点は、繰り返し強調していたことを付け加えておこう。
<イルカ猟について>
ちなみに、イルカ猟について言えば、(映画「TheCove」による)'変な誤解'があるようだが、別に町が殺したいわけではなく、国が枠を提示し、県が許可している事業なので、もし町内にそれに従事したいというものがいるなら町として応援しなければならないという立場ということで、一応はもっともに聞こえる。一方で、「逃がす」という選択をイルカ猟師に迫ったということも繰り返した。
「古い」人たちは網にかかったものはすべて殺したい気持ちがある。しかし、この9月も、バンドウイルカを追い込んだとき、生け捕り以外は離すようにと掛け合ったということだ。やっとみんな分かってくれるようになったと彼は言う。(もっとも、私がイルカ肉が売れなくなったからだと思っていたのだが、と言う問いには、ただ、年寄りはなかなか逃がすということを受け入れられない、と答えたが。
実際、このところイルカの肉用浜値は2万円台で、生け捕りの80万~90万円とでは開きがありすぎる。イルカ猟師の生きる道は、ひとえに「生け捕り」にかかっているといえる。動物福祉に関する感覚の鈍い日本でこそ今は許されることかもしれないが、長続きする事業でもないと思える)
<鯨研との関係は>
鯨研の行方が不透明な状態で、座礁クジラのデータの多くは下関に、そして鯨研の遺伝子サンプルは太地ということを聞いていた。彼はデータの保管に関しては、鯨研の鮎川ラボが津波被害を受けて保管場所がなくなったので預かっている、という。一方で、鯨研も今後はもっと予算が安くすむ太地に移ってきたらどうか、と理事の一人として提案している、ともいう。
研究センター構想の母体はこんなところにあるのだろうか?’沈没しかかっている船=鯨研’の再建に、もしかしたら一役買うつもりでいるのかもしれないという感じは残る。
<くじらの海建設予算等について>
28万㎡の湾を仕切って建設するための費用はどうするのか、と聞くとできるだけ既存の施設等を使って、町と公社、漁協等の業務の分担により、低予算ですます予定だと言う。それにしては調査費の1千万円は町の予算としては大きい。(パンフレットには、仕切り網は水産庁の補助金を使って、とあるが、水産庁予算はクジラ利用促進に関連する補助金で3千万円ほどだと後で人から聞いた)。
湾で真珠養殖を実施してきた2業者とは、2年かけて話し合いがついた(無償で明け渡す)。昨年から実績のある(真珠業者が運営した)カヤックやクジラと泳げる海水浴場の設置で、およそ30万人/年の観光客を見込んでいる。大阪からの特急も来年から太地駅に停車することになっているし、勝浦での60万人の環境客の半分くらいは太地に来ると思うという。
(季節が冬ということがあるのかもしれないが、私には、勝浦にそれほど観光客が来ているようには見えなかった。「浦島」など、有名なホテルにツアーで来ている客は、ホテル内で用をすませ、バスで移動し、地元商店街などには来ないと見え、5時過ぎにはほとんどの店が閉まってしまい、人通りも途絶える)
<森浦湾の環境など>
計画では、自然再生を目指すシンボルとして、西側の湾の入り口の干潟再生(造成)がある。現在はプレジャーボートの係留場所になっており、がれきが散乱するところだ。干潟の北側(湾の出口側)には、クジラと泳げる海水浴場を作る。また、これまでカヤックの拠点であった三幸真珠の跡地に、湾内で飼育する鯨類の管理施設を建設、その管理は漁業組合で鯨類の管理は博物館がするという。
反対側(旧グリーンピアの下)には遊歩道を建設する予定で、遊歩道予定地に面する小山の買収もすみ、椿などの樹林を作る予定であり、旧グリーンピアは全体の拠点になるようだ。
<全体をみると>
湾を仕切って鯨類を離し、あるいは一緒に泳ぐということが果たして観光の目玉としてヒットするのか、ということが大きく関わってくる計画だ。一緒に泳いだり、ウォッチングするため海外に出かける人は結構いるのは確かだが、人工的に飼育されているところ、しかも、かなり都心から離れている太地まで、同じように人が来るのだろうか?という気がする。観光で成功しなければ、町政にとっては大きな打撃となるだろう。
(現在、博物館と公社で62頭の鯨類が飼育されているという。これを始めとし、100頭くらいまでと最初はいっていたのが、意見を交わすうちに62頭は多すぎるかもしれない、と漏らした。鯨類研究でも別の面からのインプットがあれば、計画の変更も考えられるのかもしれないと思った)
同様に、世界に誇れるクジラ研究センターの建設は、現状を考えるとかなり難しく思える。どこかの誰かさんの野望によって、町がうまく利用されているんではないか?とさえ思えてくるのだ。
一方、干潟再生を活かした自然環境の整備と言うのは時間がかかるが、それなりに長いスパンで考えると、町にすむ人にとって価値があるかもしれない。温暖な気候と明るい風景は、なによりの宝であるように思え、議論がこれほどかまびすしくなければ、引退した人などが悠々と暮らすのには適しているような気がする。
けれども、外から人を来させる(反イルカ猟活動家だけでなく)ためには、もっと世界の流れに沿った計画を立てることが重要に思える。
あえて太地を選んで来るメリットがどこにあるのか?と考えたとき、私には、これまで捕鯨の拠点であった太地がそれまでの遺産(美しい勢子舟など)を整備、紹介しつつ、同時に世界に向かってその転換を表現し、世界の共有財産であるクジラをどのように保全するかの旗手となることこそ、その道であると思えてならない。
今回、くじらの博物館を訪れて、その展示内容が飛躍的によくなっていることを発見した。これは、三軒町町がニューベッドフォードから引き抜いてきたという桜井学芸員の努力の賜物だろうと思う。(最も、スジイルカの1ヶ月から出産直前までの胎児も展示にはちょっと引いてしまった。同じときに見ていた若いペアの男の子の方が「ひえ〜。どれだけ殺したんやろ!」と驚愕の声を上げていた)
すでに、イルカ猟も、これまでのような水産資源としての役割を終了しつつある。また、小型沿岸捕鯨についても、唯一船の改造を果たし後継者も育て、一番の担い手であると思われた第7勝丸の船主が引退を表明したということからも、将来の方向が見える気がする。
(ちなみに、第7勝丸は漁協が無償で譲り受けた。これまで漁協が持ってきた正和丸は、網走の下道水産が買い取るという)
広い海を移動し、国籍を持たない鯨類を、個人の所有物であり、業をするものがその生殺与奪の権利を保有していると考えるのはすでに古すぎると私は考えている。またこうした考えが、少数の意見だとも思っていない。
太地の自立への努力に対して敬意を払いつつも、一刻も早く方向を転換し、世界に受け入れられる町として動き出すことを心から祈っている。
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