オティリオ(IWC in パナマおまけ)
月をまたぐと航空運賃が安くなるというので、6月30日零時過ぎに羽田を発ち、同日いつもより2日早く現地に到着した。パナマシティは、空から見るとマッチの軸のようなのっぽビルが海辺までひしめき合っているように見える。こうした高層ビルはラテンの国では珍しいらしい。運河と金融の国にようこそ。
会議の始まる前日、同行した淳子さん真田さんとせっかくだから太平洋と大西洋(カリブ海だが)を一気に見ることにしようという話になった。
ホテルの前で待機しているタクシーにミラフローレスに行ってほしいと頼む。「片道か?」と初老の運転手は少しがっかりした風である。しばらく相談した結果、どうせなら他も回ってみようかと片言のスペイン語で交渉し、3人で80ドルでいいよ、ということで交渉成立。
スペイン語が通じる、と運転手はこちらの能力を買い被って早速観光案内を始める。この運河鉄道は、パナマシティとコロンを結んで走っている。
このあたりは、最近までアメリカ軍がいたところだ。ここに兵士を訓練する学校があった(アメリカの租借地時代に、ラテンアメリカのゲリラ対策特殊訓練学校がパナマにあったのは後で知ったことだが、そこだったかどうかは不明)。とか、この川にはワニがすんでいるよ、入ったら食われるよとか。
難しいことはわからないが、身振り手振りもあわせて、いろいろと説明してくれる。説明の後にいちいち「コンプレンデ?(わかりましたか?)」をつける。ううむ。どこまで理解しているかというと、とても怪しい。
<ミラフローレス閘門>
運河の西側の閘門、ミラフローレスの運河博物館の前に車をつけてくれて20分くらいかかるから待っているよ、と慣れた風に車を木陰に持っていく。日差しは結構きつい。
入場料を払って中に入ると建物の向こうは既に運河のあい路で、向い側には運河事務所がみえる。運河を行き来する船は、水面の高さ異なる二つの海、そして水面の高いガツン湖を上るため、運河にレールを敷き、船をその上にのせて、機関車とタグボートで引っ張って通過させる。ちょうど私たちがビジターセンターに入ったとき、三井の巨大タンカーがそろそろと閘門を通過した。ほとんど隙間もないのにびっくり。鈴なりの人だかりで、水面の方は見えず、船の煙突ばかり見えたが、下の階にいた淳子さんは、タグボートが引っ張るところを見たそうだ。
ラテンの国々は、農産物や鉱物資源、石油などいろいろなところでスペイン、そしてスペインから解放するというアメリカに「貢献」してきた歴史があるが、パナマは運河通航料という搾取をされてきた。
運河は、スエズ運河を完成させたフランス人技師レセップスが最初に計画したが、高い工費に加えマラリアなどで多くの労働者が死ぬなど散々な目にあい、頓挫したところをまんまとアメリカに奪われてしまった。
アメリカは、コロンビアの領土であったパナマの独立をそそのかし、パナマが1903年にコロンビアからの独立を果たすと、そのまま格安で永久租借権を手に入れ、1914年に完成した運河の通行権を手に入れ、防衛の名目で米軍を駐留させる。
一日30隻くらい、一隻の船が運河を通ると豪華客船で2千万円くらい、平均で500万円もの通行料が入るということだから、当時は結構な収入だったのだろう。
租借地の土地代金や運河手数料などで繰り返し抗争を繰り返し、パナマは1999年にやっと独立を果たし、アメリカ軍を追い払い、運河通航料金を手に入れる。また、長年あった運河の拡張工事計画も、やっと着手にこぎ着けたという。出資者は日本の銀行だそうだ。
<アンコンの丘>
次に訪れたのは東西(太平洋とカリブ海)を見はらせるアンコンの丘。のっぽビルの建ち並ぶ新市街と低い住宅が密集する旧市街も見渡せるところだ。
ユネスコが管理しているその頂上までは車の通行制限がかけられ、急な上り坂のゲートで20分以上も待たされた。このあたりはかつて、アメリカ軍の将校たちの住まいだったという。今は高級リゾート施設やホテルが立ち並んでいる。風通しの良いこの周辺に住むのは「subroso!(快適)」だと彼は繰り返す。
てっぺんにはためくパナマ国旗を見上げながら、運転手氏は「かつてここにはアメリカ国旗が翻っていた。学生たちがその旗を降ろしたこともあった。(学生の抗議行動は過去何回もあったが多分これは1958年のことか)今ではパナマの旗が立っている」と説明してくれた。そのTシャツの背中には独立までの長い道のりを象徴するように「revolucion」の文字がみえる。
<アメリカ橋>
運河を横断するアメリカ橋を通過し、その袂にあるパナマと中国の友好60周年記念の鳥居の下で知り合いだという露天商からお土産を買う。ただ、この店主はガタイの大きい中年の、一癖も二癖もありそうな男で、暇そうな若者を2〜3人そばにおき、滅多に人が来そうもない土産屋を細々やっているおやじには見えなかった。パナマの人たちはなかなか奥深い。
<オウム島>
次に連れて行ってくれたところは(この頃はすっかり運転手任せになっている)リゾートアイランドとでも言ったらいいだろうか?アメリカ橋の素っ気なさと違い、いくつかの小さな島をつなぐ散策路付きの見晴らしのよい橋を渡って、到着したのはisla perico(オウム島)。
ホテルやレストラン、それに多分、土産ものの並ぶモールがあったのだろうと思うが、私たちは、桟橋付近に群がる大小の熱帯魚に釘付けになってしまった。そこで運転手氏は「待っていてください」と小走りにモールに行き、クラッカーの包みを手に戻ってきた。それを砕いて水に投げ込む、魚が山盛りになって海面に踊る。イサキみたいなの、イシダイみたいなの、みんな必死にえさに食い付く。その騒々しさに、カササギたちも舞い降りてきてご相伴にあずかる。
そろそろ私たちもおなかが減った、と運転手氏にいうと、もっと安くておいしい魚介類のレストランを知っているから案内すると島見物はやめにして出発。
<パナマビエホ>
オウム島の次は、旧市街地。入り口は悪名高いスラムで「ここは歩いてはいけないところだ」、と運転手氏。麻薬でおかしくなった奴らがうじゃうじゃいる。マリファナあり、コカインあり、何でもありだ。ギャングが仕切っている。マフィア?と聞くとそのようなものだ、という。ただしパナマ国産。
旧市街地は16世紀初頭のスペイン様式の建物が狭い路地の両脇に立ち並ぶ美しいところだ。ちょっとハバナを思い出させるような感じもある。岬の先には統治府に当たる一群の建物がある。海を背にした美しい町並みがそのまま残されていて、いくつかの建物の屋根に木が茂っている!
<パナマの魚市場>
やっと昼食になる。既に2時をすぎており、80ドルで見合うのか、少し心配になる。まあ、昼食はご馳走するとして。
ついたところはなんと、魚市場。そして「ここは日本が全額出して建ててくれたところだ」とニコニコ顔の運転手氏の説明がある。おお!水産支援の現場についたとは。
既に2時を廻った市場はいささかくたびれていて、まだ店じまいをしていない2軒ほどの魚屋を除いて閑散としているが、その2階のレストランは地元の家族連れでにぎわっていた。メニューを見てもなかなかどんなものかわからなかったが(それに普段は魚も口にしないのだが)、そこは運転手氏の顔を立てて、それぞれ別々の料理を注文。
魚料理にとてもうるさい淳子さんが一口食べてにっこりする。真田さんも「うまい!」と叫ぶ。
私が頼んだのは、野菜の角切りに覆われた蒸した魚のようだ(あれ?フライではなかったかしら?)。これ幸いと野菜を食べて魚はみんなにまわす。
運転手氏が頼んだのは、大きな魚を丸ごとかりかりに揚げた料理で、これは一口ほうばって、香ばしさにうれしくなる。さすがに地元のレストラン。やるじゃない、水産無償支援!
帰ろうとすると突然の驟雨と雷。市場の裏口では、カッショクペリカンの一群れが、雨にぬれながらまるでカラスのようにゴミあさりをしていた。
いつまでいるのか?と聞かれたが、これからは会議で、(幸いなことに)会議場まで5分くらいしかかからないので車は必要ない。申し訳ないので、最終日に飛行場まで運んでね、と頼み、連絡先の電話を聞く。Otilioと電話番号が書いてある。
「どのみち、毎日ここにいるから」とホテルで降りるときに彼は言う。ここまでで既にスペイン語に疲れ果てており、ちょうど出てきたホテルのレセプショニスト嬢が英語で説明してくれて理解する。
最後の朝、彼は真っ白な、大きな襟のついたシャツに太い銀のチェーンと言う(多分)正装をして私たちを迎えにきた。
どこに行った?と聞くので毎日会議、というと、政府関係か?と聞くのでそうではない、と答えた。では組合関係なのか?と聞き直してくるので、クジラの会議に参加したと話すと、このあたりでもクジラの潮吹きがよく見える。11月にはクジラの大きな死体がうち上がったという。そういえば、パナマ政府が船との衝突回避の新しい法律をつくったと会議で報告してたっけ。
飛行場で盛大な投げキッスに見送られ、ナマケモノもクジラ見物もできなかったが、結構満足して不思議なパナマを後にした。
« IWC 64 in パナマ最終日(5日目) | トップページ | 9月4日はクジラの日??? »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント