ラッコ用水槽に入れられたイルカ
「生きる」ということ中身が、単に息をしているというだけでは不十分であることはいまさら言うまでもない。
飢えや渇き、栄養不良にならないこと、不快な生活環境にないこと、身体的な痛みや怪我、病気から解放されていること、通常の生活を送る権利、恐怖や絶望からの解放。
これらは、生きていくために十全ではないかもしれないが不可欠のものだ。
地球上には、こうした生活を保障されていないたくさんの人々がいる。
国家の介在する解決不可能なようにも見えることも含め、こうした悲劇は、人の持つ欲望や征服欲、知らないものを脅威とみなし、排除したい傾向、あるいは知らないものが同じように痛みを感じることを認めない、認めたくない狭さが基にあるように思う。
人同士においてさえ、乗り越えることの難しいこうした悲劇は、ヒトのみならず地球上の多くの生命を脅かしているといえる。
生物多様性条約を持ち出すまでもなく、人は人だけではなく、他のいのちともつながりを持つことでこの地球上に生かされてきたからである。
実は最初に掲げたのは、人が他のいきものを飼育する場合の規準として一般的になりつつあるものだ。
人が飼育する以上、こうした最低限の生きる権利を守りなさい、もしそれが不可能な場合は飼育を断念しなさい、というのが本来掲げられた目的だと思うが、往々にして、出来るならばそうしたい、というくらいの倫理規準でしかないのが現実だ。
たとえば、ある水族館がマダライルカという成獣で2m平均のイルカを数頭、水深が140mの狭い水槽に入れているとする。
イルカたちは日がな一日、頭を水の上に出して浮かんでいる。
もともとは、かなり広い海洋をそのホームレンジとし、沿岸に沿って深くもぐって餌を探し、音響を使って血縁関係を中心とした仲間で群れ集うというのがかれらの「普通の生活」のはずである。
しかし、捕獲され、親しんできた仲間を殺されて狭い平板な水槽に入れられた彼らは、彼らが当然受けるべき権利のほとんどを奪われている。
動物の福祉に冷たい日本の国の動物の愛護と管理の法律でさえ、飼育される動物が自然光を享受でき、避難場所を持ち、自然に立ち上がり、横たわり、羽ばたき、あるいは泳ぐことを保証すべきだと示している。
このラッコ施設は今、水深を深くする工事をしているというので淡い期待を持ったが、実際は20cmくらいかさ上げをするだけらしい。広さはもちろん変わらないし、140cmが160cmになっても、かれらの生活空間としては不十分であることはいうまでもない。
動物の福祉に熱心なイギリスでは、イルカを飼育するということへの批判もさることながら、適切な飼育環境を整えることが採算に合わないことからイルカの飼育をやめている。
数値目標など、もっと具体的な基準が必厳しくなれば、各動物園や水族館が自然と飼育できない動物とそうでない動物を明らかに出来る。
一方で、動物の生態に関する知識がいきわたり、不自然な飼いかたをしている動物に対しての一般の認識が変わることも重要だ。「不適切に飼育されている動物を見たくない、見るのが悲しい」というような感性を育てていくことは、もしかしたら人へのやさしさへと還元されるかもしれない。
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