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2008年9月20日 (土)

シャチの死

 きのう、名古屋空の連絡があり、クーが死んだことを知った。
 クーは、1997年の2月に和歌山県太地町で捕獲された5頭のシャチの最後の生き残りだった。推定18-19歳ということだから、人でいえば「これからが花」という時に死んでしまったことになる。

 捕獲された当時の記録を見ると、体長4.55m、体重1400g、ほんの子どもだったという事がわかる。
 捕獲された畠尻湾のすぐ横の太地くじらの博物館に1000万円で購入され、10m四方ほどの狭い囲いにかなり長い間閉じ込められていた。
 その後、オキゴンドウやカマイルカと「異種間交流」という立派な学術研究のためいっしょにされ、咬んだり、咬まれたりと研究に「貢献」をしたが、同じ博物館と長年飼育されてきたメスのシャチ「ナミ」とは一緒にされなかった。同じ年に尾びれに腫瘍が出来、完治したといわれるものの、抗生物質耐性ができたというような報告が1昨年の捕獲後10年の記念シンポジウムで報告されていたと思う。

 2003年11月にブリーディングローン名目で、仲良しのバンドウイルカとともに名古屋港水族館に移送され、そこで短い一生を終えることとなった。

 同じ群れの仲間は、ここで繰り返すこともないが、1997年(捕獲後4ヶ月の6月)、2004年(9月)、そして昨年(9月)と次々に死んでしまい、最後に残されたクーもこの7月から体調を崩していた。

最後のころの写真が水族館のHPに掲載されているが、2月に水族館でクーを見たときと比べ、心なしかひどく「薄く」なっているような気がしたのは私だけだろうか?
そのときは、限られた施設としては、クーがのびのびと泳いでいるなあ、とその力強さに感心したものだ。

 同水族館を非難するつもりはない。移送された時から、飼育者たちは誠心誠意、クーの世話をしただろうことは、彼らとの話で理解しているつもりだ。

 もちろん、野生下でも、病気や事故で寿命を全うできないものは少なからずいるに違いない。

 それを考えたとしても、若くして捕獲された5頭がわずか10年ばかりで次々死んでいくという状態が普通だとは思えない。飼育の仕方の問題ではなく、シャチのような生き物を狭い人口施設で飼育することに限界があると思わざるを得ないのだ。

 こうした現実は、日本だけのことではない。中には30余年も生きているコーキーのような超人的シャチもいるものの、弱い個体は捕獲後1,2年で死亡するし、ほとんどが寿命の半分も生きながらえることが出来ない悲しい事実がある。

 シャチは世界的にも希少であること、その生態が理解されるにつれ人々にありのままの姿が愛されるようになってきたことで、これまでの捕獲記録や飼育の記録がかなり正確に記されており、その軌跡をたどることが比較的容易である。こうした記録が役に立つのはシャチ保護のためだけではない。

 なぜなら毎年、かなりの数の野生イルカ類が生け捕りされ、水族館に売られている。中には、捕獲された後、海外に輸出されるイルカもいる。こうした軌跡は一部追跡されてはいるものの、なかなか一般的にはなっていかない。
 捕獲されたシャチの個別情報は、同じ状態のイルカたちにも当てはまるに違いない。

 擬人化は良くないという話があるのは確かだが、私たちは、擬人化し、感情移入しないとなかなか事態を頭に深く浸透させ、理解することが出来ないのではないのか、それほど、傲慢で身勝手な動物なのではないのか、と思う。

 イルカ漁師にとって水族館からの注文は肉の需要が減少している現在は天の助けだと思えるに違いない。特にシャチのような希少動物の捕獲は彼らにとっては宝の山を掘り当てるようなものだろう。

 しかし、彼らが野生の希少な動物が彼らの所有物ではなく、人類の共有財産であって、未来の子どもたちにとっても宝だということを少しでも理解しているだろうか?

 彼らは、水産庁が「持続的な利用」だと保証しているところに安心しているのかもしれないが、どうせ、水産庁の担当者などは数年で変わり、その後のことに責任など取らないものだ。研究者でさえ、同じデータを使ってありえないような数字をはじき出す事だってあるのだ(推定個体数の激変!まじめな研究者にとってこれは恥ではないかと思った)

 官僚にとって、物言わない動物の種の保全より、おおいにものをいってくる人のほうが怖いのは言わずもがなだろう。

 「持続的」であるということが事業主体(漁師)、そして事業の対象(この場合はイルカ)双方に当てはまらない場合もあるということを、当事者にどうしても理解してもらわないといけないのだが、いずれは消え行く産業であっても、より健全な沿岸漁業に転換させるエネルギーを使うよりも、延命させるのが彼らの選択だろう。今のままの霞ヶ関では、そうした態度を変えさせることは不可能ではないにしてもかなりむずかしい。

 しかし、一方で海外からの圧力は、こうした彼らが逆に自分たちの存在価値を見出す元になるので、解決を先延ばしにするくらいしか、いまのところ効果を発揮していない。


 ひとつ。水族館で飼育されている動物を見に行かないという選択がある。経営する方は利益が出なければその事業から撤退するからである。

 イルカ類の飼育は、かなりお金がかかるといわれている。水族館経営を支えるのをやめることはそれほど難しいことではないだろう。

 

  
 
 

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