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2008年6月10日 (火)

イルカの捕獲について

 昨年に引き続き、イルカ捕獲枠が更新された。全体で700頭あまりの減少。
減ったことを喜んでいいはずだが、それぞれ種別ではたいしたことはなく、どうもしっくりこない。
 「資源管理をきちんとする」と強調するのであれば、もっとそれぞれの種の持っている生態を考え、種ごと、漁法ごとに違いがあってもいいはずではないのか、と素人ながらに考える。

 特に最近、調査捕鯨肉が出回って、イルカ類は1980年代終わりごろのような景気よさは誰が考えてももどるわけはなく、業そのものが縮小していっているのだから、もっと抜本的な施策をとってもいいはずなのだ。
 今は原油高で国内のたくさんの漁業団体が休漁を検討しているくらいなのだ。産業の将来の展望から言っても、ことさらに延命させていることが産業にとってさえいいとは思えない。

 イシイルカについては、PBR(アメリカNOAAの管理の考え方)の手法を取り入れるとしているが、私の知っているある海外専門家はどこが?と首をかしげる。
 今回、イシイルカ型301頭減、リクゼン型のほうは252頭減。それでも捕獲数はあわせて16,312頭になる。1万頭以下にすべきだという声は届かない。

 スジイルカは、沖合いとDNAが一緒だったから、たくさんいるんだということで推定個体数がはねあがり、今回は枠から15頭だけ減らされている。この15ってあいまいな数字は何?

 バンドウイルカは、太地でも昨年中には来遊がなく、今年にはいって初めて漁ができたと聞いている。目に見えていなくなっている種の捕獲をたった57頭減らすことにどんな意味があるというのだろう?

 マゴンドウ(コビレゴンドウの南方型)にしても、もう本当に「やばい」状況にあるとおもわれるのに、30頭減らしただけというのは・・・・・ため息が出るようだ。

 追込み猟によってイルカは社会的な群れを消滅させられ続けている。数だけで解決することでもないが、数が多ければそれだけ群れの全滅は確実になる。しかし、方法に関しての問題は、追込みという手法によって肉ではない新たな産業を推進し、イルカ猟の延命を図るうえではきっと検討に値しないのだろう。

 イルカ猟をしている人たちのひとつの展望は「生け捕り=水族館用捕獲」というのは多様な立場の人たちが一様に言う言葉だ。要するに、生け捕りという一見穏やかそうなやり方で、実は消耗品としてとっかえひっかえ水族館に売りつけるということが商売としての可能性ということだ。

 しかも、日本国内だけでなく、海外に値段を吹っかけて金儲けをする手段にしようとしているのだ。
ある公営博物館(博物館ってどんな施設だったっけ?まあ、もしかしたら、小売屋さんなのに「博物館」なんて名前つけちゃう店もあるかもしれないが、一応、ここは’ほんものの’博物館だと思う)は、その運営を海外に法外な値段でイルカを販売することで成り立たせているらしい。
まずは中国で味を占め、次にドミニカ共和国で赤字補てんしようとして失敗し、次にトルコの娯楽施設、そして今回はイランに売るという。はんぱではない億単位にもなろうという取引だ。

 国連海洋法条約では、海洋とそこの生物は人類すべての財産とし、高度回遊性の海生哺乳類については国を越えた保護が必要だと認識を示している。特に鯨類についてはどんな国際法よりも厳しい国内法を作ってもいいとしている。
 あまり強く表現していないが、国際イルカ年が1年継続しているのも、イルカたちの存続へのさまざまな危険性(もちろん、日本沿岸でのイルカ猟をふくめ)が少しも解決されていないところから来ていることを日本の中でもきちんと認識すべきなのである。
 たまたま、ある産業のあるところに運悪く来てしまったから、取ったもの勝ちという考え方はもはや通用しないのだ。
 公営の博物館が他に率先して、「いのち」を安易に売り飛ばして存続を図るということの愚について、当事者たち、特にそこにかかわる教育関係者たちに厳しく反省していただきたいと思う。

 気候変動に比べて小さいように見えるこの問題も、実は私たちが早急に国内で解決しなければならない責任問題でもあるのだ。

2008年6月 5日 (木)

不思議、不思議

 捕鯨関連でこれまで噂されていたようなことが明るみに出たと思ったら(だれかが明るいところに引っ張り出す必要があったと思う)、その反応が、明るみに出す方法の是非に限られてしまい、なかなかいびつで残念だった。

 調査という科学信仰がとても篤くて、それにけちをつけるのはとんでもない、と考えている人は、調査の結果を個人の既得権でかなりの量を持ち出していることに疑問を抱かないのだろうか? 船の上で’立派に’調査、研究をした「かす」だからかまわないのだろうか? 
 あるいは、税金が使われている調査の産物を「お持ち帰り」することに対しても、すごく日本的に融通を利かせてしまうのだろうか。
 シーシェパードのときも感じたが、やり方を批判するのならば、同時に何で「調査」が本当に必要なのか、適切なものなのかという疑問がないのだろう?

 検察庁の捜査が行われるということだったが、結果のないうちに、また当の日新丸は、今度は北西太平洋に向けて出航しようとした。
そして、痛ましいことに、乗組員の方がひとり、自殺された。

 以前、日新丸が火災を起こした(1999年だったっけ?)時も、直後に自殺された方があり、その原因はうやむやでよくわからないうちに終わってしまったし、今回のこともほんの一部の地方紙のみが扱っただけだった。
 日新丸は、まだ出航はしていないが、水産庁は、捕獲調査をしないという選択肢はないという。

 本来ならば、持ち出し問題をちゃんと解決してから、調査そのものも検討するというのが普通の感覚なのではないだろうか?

 一方で、今度は、アイスランドとノルウェーからの鯨肉輸入問題が発覚した。これも、BBC,AFPという海外メディアの発信で、それがなければすんなりいったのだろうか?

 経産省はそんな輸入は連絡されていないというし、水産庁は「正規の輸入なら捕鯨班を通すはず」という。
輸入申請というのは、税関を通る時でよかったっけ?だいたい、輸入されるとされるナガスクジラもミンククジラも
ワシントン条約で国際取引を禁じられている種だが、3つの国がそれぞれ留保という手段を使っているので違法性はない。しかし、ワシントン条約対象種は輸出国、輸入国双方の当局が管理するものだ。

 2000年のときは、ノルウェーからの輸入は、脂身にたまったPCBが、ノルウェー国内では食べるなという警告が出されていることが明らかになるなどして中止された。ベーコンでも上物はデパートなどで100g4500円などの値がついており、ノルウェーは捨てるより、日本の業者に捨て値で売ろうという魂胆だったから、輸入業者にとってはこんなにおいしい話はなかったろう。
 
 しかし、当然ながら、安い鯨肉が入ってくれば、今でもだぶついている肉の行き場がなくなるのは目に見えている。沿岸で捕獲しているはクジラの肉の値崩れも問題となるはず。

 そんなこんなで、その後これまでに幾たびか輸入の話は出たが、立ち消えている。

 今回は、何年も前に廃業した水産会社の名義を借りて、2週間前に新たに作った会社が輸入元だという。確かに輸入は違法ではないかもしれないが、道義的問題は依然として残っている。
ワシントン条約における留保措置を悪用したそのような業者を取り締まる方法はないものだろうか?

 問題が起きたとき、上っ面だけ見ないでなぜなのか、と思う正常な関心がメディアにも薄い。自分の胃袋と攻撃対象を憎むことで、内側にこもった議論をするのはまったく生産性にかけるが、どちらかというとメディア自身がその線上にいるのだから、じれったい。

 先日もある国連職員と話したときに、捕鯨問題はもう終わりというのがその人の認識だった。しかし、私たちが国際的にはすでに小さな問題でしかないクジラ資源利用問題をいまだに無視できないのは、それが日本の水産、あるいは水産関係者を硬直させてしまっているからなのだ。

 これまでの人間の乱獲や開発、汚染、混獲、不適切な漁法などによって、世界の水産資源が危機的な状況にあることは論を待たない。
 しかし、日本のある一部の水産系の人たちは、クジラに固執することがまるでこの漁業資源枯渇の答えであるかのようにいう。

 つい最近もクジラ放牧などと、まったくお笑いとしか言いようのない意見が再浮上してあきれた。「魚を大量に食べる」とされるクジラの「放牧」がもし(不可能だと思うが)可能になったとして、クジラを飼育するはずの魚を人間が食べるほうがよっぽど効率はいいし、海洋環境にもいい。

 沿岸の再生を真剣に考えるべきときに、クジラを食べる話ばかりで熱くなるというのはいただけないが、一方で、海外に任せて国内で議論をすることを捨象している、あるいはまったく関心がない日本の人たちにはもう一度真剣に考えてほしいと思う。

 

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