« 太地シャチ捕獲から11年 | トップページ | イルカ追い込み猟について考える »

2008年2月 7日 (木)

捕鯨の是非について

 先週、PEW慈善財団というところが主催した捕鯨についてのシンポジウムに参加する機会を得た。捕鯨に賛成する国、反対する国の代表、研究者やNGOなど多様な立場の人たちが互いにどのようなよりよい解決法を見出せるかという意見を平場で交換した。発言内容は発言者の特定を避けるために公表されず、最終的には議長のサマリーが公表される。
 私の立場からは、日本にいる少数派として、合意形成になくてはならない情報の共有を訴えた。
 
 日本国内では、モラトリアムが決まった後に、国内世論の大方がその結果を支持していたと聞くが、その後、産業側が非常に強力なキャンペーンを開始し、国内における関心が薄くなるにつれ、かなり危うい捕鯨の正当化が定着して言ったと認識している。
 最初は、捕鯨に従事するものの権利だった。これについて私は、(クジラを食べる食べないという議論の前に)産業というものが永続しなければならない必然性はないのだから、産業的に継続が難しくなってきたら、国がきちんと責任を取って補償すればよいのではないか、と思っていた。
 
 しかしこのキャンペーンは、従事者の減少もあってうまくいかず、次に現れたのが「伝統文化」である。とくに、ある企業に原発の有害廃棄物投棄の批判として使われたアメリカの陰謀がバリエーションとしてベトナム戦争の枯葉剤の問題隠しとして利用されるにいたり、かなり批判力のあるいわゆる知識人でさえ、論理の混同に気がつかずに追随する有様となった。

 最近はあまり使われなくなったが、異文化に対する無理解とか欧米の日本文化の圧殺というような構図は、ある主のワンポイントクリティックス(ポリティックスではない)たちによって繰り返し使われている。

 いつもはあまり話題にされない調査捕鯨も、ザトウクジラ捕獲に関して火を噴く結果となり、さらに捕鯨船への攻撃があって、珍しく、大手メディアもカラー写真入りで報道した。
 しかし、この中でも「調査捕鯨の目的が日本の国内の要求に従ったもの(つまり南極でかなりの数のクジラを殺して肉を供給すること)なのかどうか、とか、1946年時、つまり捕鯨全盛期の条約がその後の海洋関連の条約にも拘束されないものなのか、国際的に「保護区」と決められたところでクジラを殺すのがいいことなのか、沿岸諸国の別の利益(ウォッチングなど)を無視していいのか、というような別角度の議論に対応しているとは思えない。

 先に私たちは調査捕鯨の拡大によって、国内のクジラ肉供給が過剰になっていることを明らかにしたが、今回さらに、調査捕鯨の拡大が日本政府が繰り返しその生活を守ってほしいと主張する沿岸捕鯨者の操業を圧迫していることも明らかになった。
 クジラ肉あまりが必然的に、沿岸のツチクジラやイルカ類の価格を下落させ、通常であれば撤退するところを、面子のためにやめるにやめられないような国内事情が生まれているのだ。
 少し調べればわかるこのようなことをまったく顧慮しないで、昔学校給食で食べた竜田揚げを懐かしみ、既得権益を守りたがる人たちのなんとばかげていることか。

« 太地シャチ捕獲から11年 | トップページ | イルカ追い込み猟について考える »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。