自然・不自然
「人間」を人間をまったく知らない外部のものに説明するとしたら、一人の人間の身体能力を示せば事足りると考える人はいないだろう。人間というとき、人が人と生きる姿、培ってきた文化なども同時に表現しなければ人間を説明することにはならない。
では、人間以外の生き物ではどうだろうか。単独で増殖するあまり変化のない生物は別として、ある程度進化し、社会性を獲得した動物についてはどうだろうか?
デカルトの時代はいざ知らず、自然に関する調査・研究が進み、それぞれに個性があり、また、ある社会のなかでそれぞれの役割を担っている事が理解されている現在、その1個体を取り出し解剖したところで、その種の説明になると考える人はあまりにもうぶで、無知な人といえないだろうか?
それが無自覚的に受け入れられているところがある。日本の大多数の動物園・水族館とそれを支持する人たちである。
昨年の夏、毎日新聞のお子様迎合夏休み企画と思われる水族館よいしょ記事が、ある日本語もよく理解していないと思われる若い記者(少なくとも、もらった手紙の失礼さ加減や漢字の間違いからそう判断した)によって連載された。あまりのひどさに意見を出した結果かどうかはしらないが,同紙の日曜版で「いのちの王国」という連載ものがある作家によって開始された。
最初、まじめに動物園・水族館問題に取り組むのかと思いきや、どうも、作家自身が問題意識を持っていたり、あらたに動物たちに興味を持って調査した形跡はなく、たんに現実容認であるということが分かった時点で、真剣に読むのをやめた。しかし、今回は、鯨類飼育に関係していたため、義務的に読んで見て、ひどいという認識を新たにした。
そのまずはじめが冒頭に書いた種の理解についてである。作家は、もともと、その動物がどのようなところで、どのような暮らしをしてきたかに興味はほとんどないようだ。その代わりに、施設の紹介とそこでの飼育について、もっともらしい記述を行っているが、そんなものは訪問する施設に資料をもらえばまとめられるずぼらこの上もないものだ。
たとえば、今回のシロイルカ(ベルーガ)の紹介はこうだ。「『芸』というよりも、この真っ白いイルカの能力をわかりやすく知るための組み立てになっている」ベルーガの能力をどのような芸があらわしたか、どのように組み立ててあったかさえ記述を省いている。彼女の興味は「園内どこからでも明るく広々とした太平洋を臨むことができ」かつ、展示よりもパフォーマンスに重点を置いているから、「入園者が途中で昼食を挟んだり、’普通’の展示スペースをのぞいたりしながら順番に移動していくと、実にスムーズにすべてのパフォーマンスが堪能でき」というところにあるのである。これは水族館が出しているガイド以外の何者でもないのではないだろうか?しかも、飼育者が「動物たちが嫌だと思うことはしない」ということを例に、必ずしも営利目的ではないと断言までするのだ。少しインターネットででも検索すればベルーガがどのような環境でどのような生活をしていて、水族館でのパフォーマンスが自然なものかどうかが理解できるであろうに。また、シャチに関しても、人間が身体を触らせることが彼らの健康維持に大切だというが、無理をして捕獲してきたものだからこうした維持管理が必要になるというそもそもという視点がない。水族館にいて当たり前、見せれば教育的というあまりにも無神経な紹介に、腹が立つのを通り越して関心してしまうほどだ。
ちなみに、彼女が’普通’の展示と書いたところこそ、水族館の教育的な面が生かせるところで、施設としてきちんとした生態等の説明を掲示する義務が教育施設として必須のはずだ。パフォーマンスはどのような理屈をこねようと、サーカスの動物芸の仲間であり、子どもたちに対しては(時として大人にも)、野生動物とペットの混同を招く悪い見本にしかならない。
もうひとつおまけ。編集部がシャチの「ビンゴ」のことを紹介していた。アイスランドから連れてこられた個体であり、えさはホッケとあったが、ホッケはサハリンから北海道、相模湾から対馬海峡に分布し、アイスランドの魚ではなさそうだ。
ちなみに、アイスランドにおけるシャチは、ニシンやサケを食べるものとアザラシやトド、小型鯨類などを食べるタイプがいるとアイスランドの鯨類についての紹介にはあった。たくさん分布している場所は、ニシンの多い場所らしいが、ビンゴは果たしてどっちのタイプなのだろうか?そうした興味も抱かずに、一体どこをみているのだろう?こんなことでお金を稼いでいるの?恥を知りなさい。
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